嗚呼、委くこゝに寫さんも要なけれど、餘が彼を愛づる心の俄に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我一身の大事は前に橫りて、洵に危急存亡の秋なるに、この行ありしをあやしみ、又た誹る人もあるべけれど、餘がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我數奇を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる麵に、鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、餘が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ。
公使に約せし日も近づき、我命はせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、學成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、學資を得べき手だてなし。
此時餘を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、餘が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、餘を社の通信員となし、伯林に留まりて政治學芸の事などを報道せしむることとなしつ。