正文 第4章 新しい姿の古都(1 / 3)

821年に明州市役所が設立された時、大通りなど町のメーンストリートがあった。宋、元、明、清という四つの時代を経て、寧波の町はどんどん今の江東區、江北區の方へ拡大され、次第に外堀をシンボルとした街作りが形成されていた。新中國が成立される前、寧波市のインフラは非常に立ち遅れており、市內の道路の全長、一人あたりの道路麵積、橋建設など各方麵において皆、低いレベルである。1949年から1989年まで、町のインフラは比較的に大きな発展を遂げたが、歴史など諸原因により、全體の狀況はままならず、時代の発展に大きな開きがあった。統計資料から見ると分かるように、「第七回五ヵ年計畫」の末期(1990年)、寧波市(海曙、江東、江北の三つの區)の道路の全長は約400キロメートル、最も広い道の幅は30メートル足らずで、一人あたりの道路麵積がたである7平方メートルにすぎなかった。寧波市の象徴と言われる三本の川(奉化江、餘姚江、甬江)は依然として交通を阻む主な原因である。海曙區と江東區をつなげる浮き橋は江廈橋に取って代わられ、ほかに、現代社會では必須のごみと汚水の処理施設はゼロに近かった。

近年の都市建設

1990 年代に入って以來、都市建設の重要性が日増しに人々に知られるようになり、寧波市のインフラ整備が軌道に乗り始めた。経済を急速に発展させることを中心とする行政指導の下に、寧波市は恵まれた港の地理的優越性と柔軟な政策により、経済力が飛躍的に伸び、町並みが大きく変わり、生活環境は大いに改善され、美しい町並みが出來上がった。

——東へと西への拡張

都市がボディーであれば、道路がその骨組みになる。都市発展の妨げになる交通問題を解決するために、1994 年から、寧波市は3年間かかって道路建設のプロジェクトを実施した。その重點は「主要道路を開通、不通の道を疎通」ということである。さらに、1999年に寧波市は東へ拡大する戦略を立て、「三本の川から飛び出し、大寧波を建設する」というスローガンを掲げ出した。その後、數多くの道路、橋などの工事が相次いで行われた。2000 年に寧波市は橋を3つ、道を24本造り上げた。町の枠組みが大幅に東へ広がった。また、環城北路、中山西路の延長線、聯豊路の道路工事によって町が西へと広がった。

特に、新たな都市建設の一環として、立體交通建設が繰り広げられた。6本からなる放射線狀軌道交通が寧波の市街區と餘慈地域と奉化に結ぶ。2009年6月に軌道1號線のトンネルの工事が始まった。寧波市の環城高速道路が市內に接続する道路が13本、うち11本が計畫または建設中で、今年中に開通される予定である。

2007年2月に工事の始まった寧波青林灣大橋が2010年に9月に竣工して開通した。江東區と江北區に跨る大橋~外灘大橋が2010年7月に接合し、今年年末に開通予定である。寧波明州大橋が接合し、來年の上半期に開通予定である。長さ1250メートルの橋と東環城道路の同時開通を計畫中。このような大規模な建設工事が寧波の地上と地下交通の一體化をさせ、三本の川の六つの岸を密接につなげた。みごとなハープのように川風にやさしく弾かれ、あるいは美しい虹のように漣に逆に映り、あるいは出水を起こしたみずちのように真珠を遊んでいる。都會が完全にインスピレーションに満ちた夢幻に浸ったようである。

——高層ビル林立

20世紀80年代以前、相當長い時間のうちに、隋唐時代に建立された天封塔は寧波の建物のシンボルで、最高の建物であった。90 年代以後、高層ビルは絶えずに川の両岸に現れ始め、さらに寧波の第一高度を何度も更新した。中山路に聳えて、1995年12月に竣工した38階建ての中農信國際商廈は、急に寧波の建物の高さを138メートルに高くして、當時浙江省の一番高いビルであった。2004年7月になって、52階建ての179.2メートルの淩江名庭は見事に竣工した。

目前、寧波の高層ビル、超高層ビルが200棟を超えて、特に寧波標識とも言える三江口區域では、高層ビルが立ち並び、近代化的な大都市の姿が現れつつある。現在工事中の百メートル以上の高層ビルが數多くある。中信國際の東側にはシャングリラ大酒店が聳えている。ポートマンセンターが百メートルを超える建物が3棟、本館が120メートルに上る。鄞州中心部にある50階の明州花園酒店は帆の形をする本館が168メートルに上る。2010年7月、寧波一の高さを誇る228メートルの寧波商業會議所ビルが竣工し、布利傑グループ、杉杉グループ、利時グループなどの有名な企業グループがそこで本拠地を構えた。