歴史の源
寧波商事は紀元前まで遡ることができる。唐と宋の時代には、寧波では大きな商船が行き來し、商品が豊かで溢れていた。清の時代に入ると、寧波は「品物が全て揃い、店舗が林立している」というような繁栄ぶりを呈していた。
寧波ビジネスグループ(寧波邦と略稱)は清の時代の寧波府管轄の6県の商人グループである。親類や同郷人で助け合いながら長年にわたって、他の都市で商業を営む寧波人が血縁と地縁の絆が強いビジネスグループが形成された。寧波ビジネスグループは明と清の時代からアヘン戦爭を経て、19世紀の中末期から20世紀の初めにかけて、「寧波邦」は経済力が強く、人材が多く、急速に発展してきた。「寧波邦」は伝統の産業グループから脫出し、地域性の強い経済人の集団になった。「寧波邦」は上海を活動拠地として、北京、天津、漢口にも大きな影響を及ぼし、全國に広がった。
北京での同郷人であろう、他の各地での同郷人であろう、具體的な狀況がどうなるかは重要ではなく、重要なのは、その頃、寧波商人の數が多くて集會が必要となったことが言うまでもなく、寧波ビジネスグループが一つの無形的本質的な「幇」行為として、「商儒一體化」というアイデンティティを持つグループに変わった。その心底にはまた一つの強い心の絆が成され、互いに認め合う精神力になった。「同郷」という言葉には、まさに自分と同じ「同い人々」と見なし、同郷人會がこういう心の契約を強くし、そしてそれを組織化したわけである。
王安石が創始した「農家の子は皆學習し、士儒の子は皆麻を織る」というような社會的雰囲気、それに応じて、文も禮も重んじて、信も義も尊重する地方文化精神は、もう寧波の代々の理想的な精神支柱になった。この後、寧波から全國まで活躍した人々はほぼ二種類に分けられ、それは商人と學者である。
寧波天一閣収蔵文獻の中に、500種類以上の寧波人や寧波地方に関わる族譜があり、これらの族譜に記載している伝記の中で、よくこのような資料が見られる。ある家族のある人が幼い頃から読書が好きで、社會動亂のため、家が落ちぶれたため商売しか従事できなかった。それから彼がビジネスに成功した後、またお金を寄付して、學校を設立、運営したり、慈善事業をしたりして、あるいは彼の後代に科挙や読書を引き続くように求める。たとえば買弁(コンプラドール)である楊坊の族譜によると、もともとは読書人の家柄ながら、その後、落ちぶれて、読書をあきらめざるをえなく、商業を営むようになったという。李氏は寧波の名門名族で、彼の一族の中に、多くの學者がいて、近代になると、上記のように、家族が落ちぶれ、その後、商売に従事し始めた。したがって、寧波の近代商人の大きな特徴は、幼い頃から読書して、出世した人もいれば、商業を営んで、みごとに成功した後、更に社會の教育事業に出資し援助して、そして、彼らの後代を引き続き読書させる人もいる。
更におもしろいのは、寧波人はこの二本の歩み道を巧みに結び付けた。寧波の學生たちが最初からも「転じて商売に従事する」という心構えを持っている。官吏になる道はリスクが続出するので、それに読書の道は、投資が多くて、成功率がきわめて低いから、そこで読書の啓蒙時期から、寧波の家長達は學生に、まず八股文に関する論文を掌握させることではなく、三つの実用的な技能を掌握させる。それは書道、書簡と算盤である。彼らは學生にとってすべきことは、字をうまく書き、算盤を正確に使用すると思っている。このように、結局的にたとえ官にならなくても、優秀たるビジネスマンになる。このようにして、寧波商人の予備力という文化育成構造が形成された。
更に、寧波は、中國で水運と物流に恵まれている。中國に長い海岸線があり、南北の船舶は寧波で行きかい、売買し、回転し、集散している。有名な港町として、寧波はまた一つの有利なところがある。それは、京杭(北京~杭州)大運河に通じることである。よく知られているように、この河は杭州まで通っている。それに、杭州から寧波までへはまた1本の杭甬(杭州~寧波)運河があり、それでここの物資は上海から寧波まで、また寧波から運河に沿って杭州まで運送され、更に杭州から京杭大運河に遡って、各水係を通してまた四方八方の中原地區まで、さらに北方の地區までと繋がっている。
寧波のビジネスマンは同郷の絆を重んじ、同郷人が互いに助け合う観念がとても強く、困難を共に切り抜けることができ、共に経営のリスクを防ぎ止めることもできる。
寧波は「知識階級商人の揺り籠」という美稱が昔からあり、商業貿易の伝統が悠久である。知識階級商人の文化から育成された寧波の実業家は、生まれにして商売が上手である。アヘン戦爭の後、資本主義の國々の侵入に従って、商人はみんな経済の比較的に発達している都市に殺到し、商業を営んで、それからビジネスグループが形成された。當時比較的に有名なビジネスグループには、「広州グループ」、「安徽グループ」、「福建グループ」などがあった。その中に、徐々に落ちぶれ、姿をひそめたグループもあったが、「寧波邦」は長時間にわたり、衰えなくて、継続的に、強く発展して、特に香港、マカオ、台灣にある「寧波邦」は、もっとも名を馳せる。
「寧波邦」は中國で最初の機械圧延工場、搾油工場、マッチ工場、機械製造工場と銀行を創設し、我が國の近代経済の発展に大きな貢獻をした。香港の富裕層のトップテンの中に、「寧波邦」の三名がその位置を占める。鎮海人の包玉剛は「船王」と呼ばれ、世界で一番數多くの船舶を持ち、容積トン數の最高を持っていた。これは寧波の獨特の存在している経済の資源である。金があれば寄付し、力があれば力を盡くす。寧波大學は「寧波邦」の貢獻の一つである。
知識階級商人の文化の影響により育成された寧波の企業家は、生まれつきにして商売をする。寧波は歴史文化都市であるがゆえに、寧波人、寧波の企業家も自分の言語と性格を持ち、比較的に控え目で、実務に勵んで、著実で幾帳麵で、言いふらすことが下手で、沒頭して勵んで、學習に優れている。
「四明山は八百裏も広く、品物は東南一豊富」。當時孫文が寧波を訪問したとき、かつて「寧波はこのような土地を持ち、相當たる財力があり、かりに速やかに困難な局麵を対処し、うまく経営すれば、中國で第二の上海で、中國人の上海になる。」と演説をした。これはどんな目と気迫であろうか。寧波の雄大な青寫真を煌びやかで美しくて描いた。
昔から、寧波は繁栄している対外貿易の都市である。19世紀60年代まで、寧波民営金庫、南北店舗、魚市場は市のどこまでも至り、世に「天下にあまねく歩いて、むしろ寧波江廈に及ばない」と言われている。寧波人が商業を営む足跡は一麵の天下に至り、「寧波なしには、市場になるまい」ということは広く知られている。
「寧波邦」は明の時代に形成して、五港が通商後栄えて、辛亥革命の時期に真っ盛りな時代を迎えた。近代の中國の商工業の風雨のなかで、「寧波邦」は盛んな風景の1筆を描いた。1916年孫文はかつて「寧波邦」の企業家に高い評価をした。それは、「凡そわが國の各埠頭に、みんな甬人の事業があり、ヨーロッパの各國においても、また甬商の足跡が多く殘っていて、その影響と能力の大きさから見ると、強くて一番と稱される」という評もあった。孫文の言うように、「寧波邦」は寧波の発展に対してきわめて重要な働きを果たした。
l984年8月1日、北戴河にて、世紀偉人の鄧小平は「全世界の寧波邦を動員させ寧波を建設しよう。」という寧波人を今まで感動させることを話した。口ぶりの至る所、世界各地で生活している「寧波邦」の心に響く言葉が甬江両岸の畔に飛んでいた。
時が移り変わって、故郷の人情風土が変わっていない。前世代の「寧波邦」の後継ぎをしようとした若い世代の「寧波邦」は故郷に貢獻している。1984~2009 年、香港、マカオ、日本、シンガポール、マレーシア、米國、イギリス、ドイツ、オーストラリアなどの67の國家と地域で30數萬の「寧波邦」が活躍している。若い世代が引き続き故郷の公益、教育、醫療などの事業に気前よく支援しているし、経済建設に力を盡くしている。概算統計によると、1984~2009年、海外「寧波邦」が故郷に13億元の人民元を寄付し、その他の省市に各類の公益事業を支援し、「寧波邦」が全國で寄付総額が78億元に上る。
ここで上海埠頭が開放されて以來、最大の移住者グループになったであるけではなく、上海の発展の中で最も重要なビジネスグループにもなった。上海の金融、商業、水上運輸、工業などに対して全局麵を左右する働きを発揮していた。たとえば、「上海銭業リーダー」と呼ばれている秦潤卿は、上海銭業の同業組合を5年間もリードした。1987年、葉澄衷、厳信厚、朱葆三の三人より創立された中國通商銀行は中國人自ら創立した最初の銀行であった。その後、虞洽卿などは四明銀行を創立して、朱葆三、林蓮孫などは中華銀行を創立して、寧波人が創立し、経営していた銀行は27軒の數にも達した。1905年、朱葆三、厳信厚などはまた中國の第1陣の保険會社の「華興保険會社」を創立した。1920年、虞洽卿、盛丕華などは華人が開いた最初の証券取引所である「上海証券物品交易所」を創立した。1921 年朱葆三、厳信厚などは中國で最初の信托會社である「中易信托公司」を創立した。