寧波の歴史と文化には強い地域的な個性を持っている。江南水郷の普遍的な人文特色を持ちながらも、獨自な儒商文化の精神にも富んでいる。「詩書伝家」という文化伝統が「経世致用」と相まって、その精神を作り出し、「靜若処子、動如脫兔」(普段は処女のように大人しいが、いざとなると、脫兎のように素早く行動する)のような処世術に表れている。もともと寧波出身の三十萬の華僑は世界各地に根を下ろし、ずっと前から「無寧不成市」(寧波人がいなければ、市が立たない)の名譽を與えられた。一方、住み慣れた土地から離れがたい寧波人は心を込めて商売を営むのである。我々は、それぞれ特色のある都市、村落、建築、寺院、庭園、工芸から一つずつの文化符號にいたるまで、「手振五弦、目送帰鴻」(五弦の楽器を弾きながら、鴻鵠の帰りを見送る)という幽玄な境地を味わうことができる。
無形文化遺産は既に我が國の流行語となり、各地で無形文化遺産を選抜するイベントも盛んに行われている。言うまでもなく、寧波にも無形文化遺産が數多く存在している。無形文化遺産を伝承するのは、完全な民族の文化史を築き上げることに役立つのである。厳密に言えば、文化史は社會全體の文化史で、各階層によって創造された文化を全て含むべきである。伝統社會では、民間文化は常に民族文化史に記載されていなかった。民間文化の記憶が殘っている無形文化遺産を伝承し、保護するのは、我が國の文化史をより完備させることになる。現在、寧波には四種類の無形文化遺産が國家ランクに入った。すなわち、民間文學類の梁祝物語、舞踴類の奉化布龍、戯曲類の寧海平調、美術品類の朱金漆木彫である。省ランクに入った無形文化遺産は七種類の八項目があり、市ランクに入った無形文化遺産は八種類の二十八項目がある。
文化習俗
寧波は、悠久な文化伝統があり、歴史上にも人材が輩出し、非常に豊富な文物遺跡を持ち、地方の戯曲芸術と大衆の娯楽活動も盛んに行われている。それ故に、寧波は名実共に、國務院から名づけられた歴史文化の名城である。
解放されて以來、寧波の文化事業は、伝統への伝承と発揮を土台にし、大きく発展してきた。特にここ數十年間、経済の著しい発展と共に、市民の教養も高くなるにつれ、數多くの新しい娯楽項目や施設が衰えてきた伝統文化のかわりに繁栄してきた。大衆文化の活動がより隆昌の方へ発展している。
張り龍
張り龍は慈渓市長河鎮墊橋路辺りの特色のある工芸である。
長河の人々は龍燈(龍型の燈籠)を操るのが好きであるが、シンプルなデザインは好みではない。長河鎮墊橋路の龍燈は殆ど精巧で、別格なので、観賞用には高い価値を持っている。張り龍はその一つである。
張り龍は刺繍龍の別稱を持ち、龍燈の全體が金と銀で飾られ、様々な文様と花模様の刺繍が施されるのである。龍燈に使われた布が全部刺繍台に張って刺繍されたので、張り龍という名前の出所がここにある。
張り龍は竹で骨組みを作られるのである。職人たちは、殊に龍頭の製作に心血を注ぎ、目?角?口?髭などを全て本物とそっくり見えるように努力する。1944 年、長河では高足踴り?鼓鼎?排夜班?高抬閣?火流星?華龍船と様々な龍燈のイベントが行われた。あの場にいた皆は口を極めて墊橋路の龍燈を賞賛した。當時作られた張り龍はボタンで打ち合わせられ、二人によって順番に挙げられ、徐徐に進行するのである。張り龍の頭が巨大なので、それを挙げるのは、四、五人で交代しなければならないのである。念のため、張り龍の前後には紐を引いてフォローする人が配置されている。
長河で一番有名な張り龍が二つある。一つは頭甲(旗下庵)にあり、巨源裏に収蔵されている。もう一つは七甲(分江市)にあり、永泰花行に収蔵されている。張り龍への誇りと崇拝によって、地元の人間が永泰花行の張り龍に宿る神が霊験したこともあると信じている。
寧波刺繍
寧波刺繍は長い歴史を持った伝統工芸品である。ずっと前から、寧波の民間には「家々ござを編み、戸々刺繍す」という伝統がある。明代と清代にわたって、民間には數多くの刺繍職人が出て、刺繍の販売量も次第に増えてきた。寧波刺繍は東南アジアまで販売され、蘇繍?湘繍?蜀繍と妍を競い、それぞれの特色を持っている。
寧波刺繍は獨自な地方風格を持っている。寧波刺繍は構図が簡潔で、色彩が鮮やかで、おおかた黒色?灰色?藍色?真紅?黃色?灰緑などのような柔らかな色彩を用いるのである。主な運針法には斜針?扣針?太針?抽糸?朝紗?挾糸?曬毛針?打子針などがあり、最後に金や銀の糸を使う盤繍で飾られる運針法もある。刺繍の模様は殆ど、龍鳳?如意?牡丹?百鳥のような大衆の好みに応じる題材を取材している。それらを使って、刺繍をより一層優雅に、ゴージャスにさせ、古風で、素樸で落ち著いた感じを人々に與える。正に寧波民間ならではの地方風格に富んでいる工芸品である。
寧波刺繍は各色彩のシルクとレーヨンを取り混ぜて造られた錦を原料にして、金や銀の糸で彩られた平繍の模様の周囲に刺繍することもあれば、金や銀の糸でぎっしりと刺繍し、模様の空白を満ちるところもある。融盤金が色繍と一體になって、優雅な裝飾の趣に富んでいる。
ここ數年來、寧波刺繍は「工芸品を日用品化し、日用品を工芸品化せよ」の要求に即して、絶えず製品を革新してきた。製品は芸術的な価値を持っていると共に、日用品でもあり、更に旅行記念物、家族へのお土産でもある。趙樸初が寧波を訪問し、職人たちの刺繍の技を見學した時、口を極めて賞賛したであるけでなく、「古今を吟味し、雲や月を裁き切るようで、奇異な草花、奇妙な針」という賛辭まで殘した。その賛辭は寧波刺繍の特色を極めて洗練に現れた。ここ數年間、職人たちは伝統工芸を受け継いできたと同時に、國外の先進的な刺繍方法も學びつつ、寧波刺繍をより一層発展させた。1989 年、寧波刺繍の大型の屏風~「百鶴朝陽」は中國工芸美術百花奨の珍品奨を受賞し、中國美術館に収蔵された。
朱金漆木彫
寧波の朱金漆木彫は約1000年あまりの歴史を持っている。漢代と唐代以來、木造建築の発展につれ、彩漆と鍍金が同時に使われた裝飾用の木彫が出てきた。759年、唐の高僧鑑真とその弟子によって建立された日本の唐招提寺には、數多くの朱金漆木彫が使われた。その講堂と舎利殿などで使われた朱金鏤彫のスタイルは國內に現存している阿育王寺の木彫とはかなり似ている。
寧波の朱金漆木彫は楠?槿?銀杏などの木材を浮き彫り?立體彫刻?透かし彫りに彫り、その上漆を塗り、金箔を貼り、そして砂金?碾銀?開金などの工芸を加えたので、朱金漆木彫に古風な造形を與えた。朱金漆木彫の彫り方は重厚で、金色と他の色の組み合わせはめでたく、ゴージャスである。朱金漆木彫の取材は殆ど京劇に出る登場人物の服裝や姿勢なので、「京班體」と呼ばれることになった。「京班體」の構図は透視法で全ての近景と遠景を同じ畫麵に彫り、近景が遠景を遮らないので、畫麵全體が充実で、整然としている。中國の伝統的な絵畫における「丈山?尺樹?寸馬?分人」の比例にひきかえ、朱金漆木彫では人や馬のサイズは建築より大きい。木が生える石は山を象徴し、草が生える石は石を象徴し、鳥と雲との組み合わせは空を象徴し、景色は陸地を象徴し、舟は河を象徴しているので、朱金漆木彫はかなり裝飾性に富んでいる。例えば、「武士には首なし、美人には肩なし、旦那にはビール腹があり、武士は胸を張る」のような定められた表現手法は、寧波の朱金漆木彫に趣を持たせることになった。
「三分は彫刻にあり、七分は漆にあり」というのは、朱金漆木彫の職人たちの経験でもあり、結論でもある。すなわち、朱金漆木彫の主な特色は彫刻にでなく、漆に反映されている。朱金漆木彫は金箔と漆で飾られるので、彫刻はそれなりに精緻を極めなくてもいいにひきかえ、漆器工に対して、磨き?抉り?彩り?鍍金?描きなどは殊に厳しく要求されている。こういう工芸こそが、朱金漆木彫に豪華で煌いた効果をもたらした。
明と清の時代以降、朱金漆木彫は広汎に民衆の日常生活に用いられるようになった。例えば、日常調度品や仏像や家具の裝飾などに用いられ、特に民衆の生活に深くかかわる婚儀のベッドと輿によく用いられた。「千工床」や「萬工輿」などのような典型的な朱金漆木彫以外、「迎神?賽會?燈會」の場合に用いられる朱金漆木彫の船?東屋なども絶好な民間工芸品の逸品と言ってもよかろう。
寧波の朱金漆木彫は民間習俗の変遷に従って、我々の生活から姿を消えていく一方である。目下、民間では古風の家具を模作する時に朱金漆木彫が用いられるが、それも次第に衰えていく。寧波の朱金漆木彫は國家無形文化財に登録された。
寧波走書
寧波走書(別名は蓮花文書あるいは犂金へんに華書)は寧波?舟山?台州辺りに流布し、地元の民衆に好かれている。寧波走書はおおよそ同治?光緒の時期に誕生した。
芸人たちの話によると、寧波走書は最初に上虞から伝わってきた。當時、ある雇い人たちが農事中に歌で問答し、自分で自分を楽しませることによって、疲れを取る目的が達成された。そして、歌の內容は通俗的な小歌曲から筋の通した物語に発展し、夏に涼む時や冬の暇な日々に、何人かが穀物を幹す所や祠堂に寄り集まり、出演した。また、ある人は節句に限って、出演して小遣いを稼いである。當時はなんらの楽器もあるまいし、ただ二枚の竹板と一つの竹の根しかなかった。それに、リズムも非常に簡単である。光緒年間、このような演出はもう既に餘姚の農村に流行ってきた。その後、餘姚では、農閑期に戯曲に出演する農民や行商人や職人は、「杭餘社」という組織を組み立て、たびたび戯曲の経験を交流し、戯曲の書目を研究していた。その中に許生伝という老人がいた。彼は紹興の「蓮花落」の曲調を學び、初めて月琴を伴奏に用いた人として、一人で月琴を弾きながら歌ったので、當時の大衆の間では大いにもてていた。彼の影響で、數多くの芸人も様々な楽器で伴奏し始めたことにとどまらず、「四光南詞?寧波灘簧?地方俗謡から色々な曲調を摂取し、改造し、応用した。同時に、書目も大いに進歩した。『四香縁』『玉連環』『雙珠鳳』『合同紙』『紅袍』『緑袍』などのような長編も出てきた。活動の範囲も次第に寧波?舟山?台州という三つの地域に広まった。