正文 第15章 伝統工芸品(1 / 3)

寧波象嵌

寧波象嵌は中國伝統手芸品の中できわめて優れたものである。完璧な工芸品として登場したのは、隋?唐の時期である。清の乾隆?道光年間、寧波の骨と木の象嵌は獨特な地方の風格と精巧で、世界に名が知られ、揚州の螺鈿と広東の象牙象嵌に劣らない存在である。寧波象嵌は「貢ぎ物」とされ、今も北京頤和園の楽壽堂に寧波の骨木象嵌が陳列される。

寧波象嵌の手法には高嵌入と平嵌入の二種類がある。前者の模様は突き出ているのに対し、後者の模様は木材と並行して嵌めている。その作り方は主に象牙、螺鈿、木片、銅などを使って、木材に嵌め、彫刻刀で彫ってから線を引くことである。気高い裝飾物としながらも、また実用性もある。

寧波の骨木象嵌は朱金の木彫り、漆の工芸品と同じように、唐代に鑑真和尚によって日本に伝わったという。日本の唐招提寺の中に陳列されている骨木象嵌家具、漆皿などはほとんど明州から持っていた工芸品である。僧侶たちが使った「紫檀碁盤」「雙陸盤」などの器皿も明州の職人によって作られた寧波骨木の象嵌である。嵌めた図案は古雅で、彫刻は入念で、腕前は優れている。日本の真人元開の『唐大和上東征伝』によると、鑑真が日本に持っていたものは、刺繍像、畫像、彫像、金銅像……骨木象嵌の仏像などという。その像と寺院建築の方法は、日本の塑像と寺院彫刻の手本となる。

寧波骨木象嵌の技術は更に古きを生かし、椅子、揺り椅子、機、茶卓、置物、大きい戸棚、小さい戸棚および屏風、裝飾品などに活用され、その技はとても優れている。中國畫にそっくり、草花と人物が生き生きしている。

寧波の漆器

寧波漆器の技術は、悠久たる歴史を持っている。7000年前の餘姚河姆渡遺跡の中で赤い漆碗が一件発見された。それはこの技術の歴史の長さを物語っている。

中國は最も早く天然漆を発見して使用した國である。『韓非子』には、「尭は天下を禪し、虞と舜はそれを受け、軒山において之を裁き、鋸にて修ったこの跡を削き、漆を流れ其の上に墨し、之を宮に輸し食器と為し…禹は祭器を作り、其の外に墨染し、其の內を朱畫し、…」と書いてある。日本においても「漆の使用は、中國の太古から始まった」という説がある。現存の資料から見ると、寧波の漆器はすでに唐代に定著され、そして東の日本に深い影響を與えた。

唐代では、寧波の漆器技術はかなり高い水準に達した。明朝に入ると、更に盛んになった。『浙江通誌』によれば、「大明宣徳年間、寧波の泥金彩漆、描金漆器は國內外に名が知られる」という。

寧波漆器は中國の生漆を主要な原料に、木胎が主に、竹切りと竹編を胎とするのもある。その製作は浮花、平花、沈花の三類に分れる。浮花は生漆で塗った工芸品の上に、各種の山水、花鳥、人物、樓閣などの図案を描き、その膜が硬くなったら、金箔を置き色彩を塗る。平花の作り方は、漆の膜に彩って図を描く。沈花は透明な漆の下で模様を描く。唐の有名な詩人白居易は中國の漆器について次のように語っている。「珠を綴り玉を嵌め雲母を貼りて、互に玲瓏たる五金七寶は精巧である」。

寧波の漆器は唐代から日本に伝わっていた。そして長所を取り入れ、短所を補って、互いに影響しあった。唐の高僧鑑真は日本へ渡る前に一度寧波に居住したことがある。多くの寧波漆器を探し集めて、日本へ渡航の際持っていったから、日本の唐招提寺の一部の仏像は寧波漆器の技術を採用したものであると思われている。その後、両國は互に往來し、技術を交流した。例えば、日本の光り漆、金箔漆、羅鈿、雲母貼りなどの技術は、材料の選び方、作業と造型まで寧波の伝統漆器に非常に似ている。日本の正倉院には今なお隋唐時代の漆器が殘っている。その他、寧波の漆器の仏像、家具などは日本に入ってきて、日本の仏像と家具の技術にも影響を與えているから、次第に日本の民族芸術の時絵(漆の上に金銀の絵を描くという技術)になった。

一方、日本の漆器の技術は寧波に入ってきて、直接寧波の漆器を影響した。例えば、日本の仁明天皇(西暦834~850年)の時、遣唐使船が明州に上陸した。遣唐使が持たれた土産には漆器があった。中國の返禮にも家具や漆があった。奈良正倉院の蔵品の中には唐から持ち帰ったものも少なくない。五代、南北宋朝の時、寧波は日本に通ずる重要な港になって、日本の螺鈿漆器、金銀時絵、日本絵、屏風、螺鈿時絵二蓋簞笥、花鳥浮世絵、海図時絵、金銀の器などはとても人気がある。1173 年、日本の後白河天皇に獻上した明州刺史からの贈り物の中に、金箔箱と金箔簞笥がある。日本の漆器技術は寧波から伝わったという説もある。ところが、宋代になってから、日本の時絵は寧波の漆よりも秀でていた。そして中國では人気商品になった。そこで、朝廷が日本に技術者を派遣し、その技術を學んでもらった。再度日本から中國に輸入してきた。『七修類稿』には、「其の漆の理を精通し、それぞれの色は皆合える。命令を受けて渡日、漆器を學び、日本の漆は尤も精妙である。」「山水と人物、表情は躍如としている。臨模しても及ばない。古いほど鮮やかである。東洋日本漆と呼ぶ」と書いた。明代、日本の遣明船は寧波に通ずる。日本から持ってきた漆器には屏風、金の漆器などがある。寧波から輸出したものには、赤い漆器、皿、機、金箔漆器、朱漆などがある。史料の記録によると、明朝が始めて日本に贈った物は朱漆の化粧用金轎(金付け、器物の模様に金箔付け)、朱色金椅、ベッド、洗麵台、金箔碗などであるという。日本の漆器も寧波の人々に好まれていた。『寧波府誌』によると、「寧郡は海洋に近い。稅関を設けてから、外國の諸商品が集まり、例えば漆器など、住民は皆それをまねて作る。洋製のものに及ばないが、民間では利益を設けている。」という。ここでの「洋製」は日本の商品を指している。聞くところによると、寧波漆器の金星漆(雨雪、細金)は明の宣徳年間に、寧波人は日本のデザインをまねて発展したものであるという。明の中葉、日本商人が寧波で貿易をして、多くの日本漆の家具を持ってきた。近年、寧波の鎮海、奉化などでは日本の漆器工芸品が多く発見された。その製作上のパイナップル模様、金描き、酒具、彩りなどの技法及び造型は、皆寧波民間の伝統家具の漆器と類似しているから、寧波と日本の漆器交流史の証となっているでろう。絶えずに交流して長所を取り入れ短所を補うため、雙方の漆器技術が互いに高まった。

寧波漆器は長い歳月を経て、現在では寧波の重要な輸出工芸品になった。主な製品は、屏風、椅子、茶卓、果物皿、戸棚、書棚、テーブルなどで、彫刻と造型が本物そっくり、立體感を感じ、煌き極めて精巧である。

竹細工

竹黃という竹細工は、竹の青い皮を剝いて、適當な大きさに切った竹を煮て乾かして青みを消し、彩り、漆塗り、造型加工をして作った工芸品である。寧波の伝統工芸品の一種である。

竹刻の芸術は中國では悠久たる歴史を持っている。明の嘉靖萬暦年間、嘉定の朱鬆林三代の家族があって、宋?元の風景を描き、竹に畫を刻み、當時の人々に好まれ、それを得た人はまるで寶物を得たように嬉しく、後世の人々がその技法を真似たと伝わっている。清代に、浙江あたりではモウソウチクが豊かに産出されるため、原材料を入手するのはとても便利であるから、竹刻の名人が次々と輩出し、世界に名が知られ、多くの作品が宮廷內にも選ばれた。