正文 第17章 郷土料理(1 / 3)

渓口の千層餅

渓口の千層餅は、寧波市奉化県渓口鎮の特産菓子である。外形は四方、內は27枚に分け、金色で緑を透かし、バリバリに焼き上げられた芳しい千層餅がたまらない美味しさで、いくら食べても飽きない。

渓口千層餅の歴史は百年以上あった。光緒八年(1882年)に、渓口鎮の王毛竜氏が王永順餅店を開き、1886 年から餅を作り始めたそうである。ある日、弟子の毛化竜が餅に奉化産の海苔を入れ、出來上がった餅は以外にすがすがしい香がし、顧客に好かれた。その時から、海苔を添加物とし、「毛竜千層餅」と呼ばれる餅を作り始めた。これまで百年來、それを代々受け継ぎ、丁寧に製作してきたから、商売繁盛で、名を馳せた。

渓口千層餅の製作は、材料にこだわる。上等な小麥粉、油、砂糖及び奉化産の品質優良な海苔を原料に、蒸し、餡作り、層作り、焼き、包裝などを通して作られたものである。厚さは1.5センチの間に、27枚を重ねるから、歯ざわりがよく、芳しく、魅力的な菓子である。

渓口千層餅は郷土料理として、観光客、或いは贈り物のお土産として、特に海外の寧波人に故郷の味として親しまれる。

竜鳳団子

竜鳳団子は、浙江省東部地域の名物料理で、また寧波市の十大名物料理の一つである。作り方が優れている。人々に好かれる安くて美味しい団子である。古くから多くの団子屋があったが、趙大有の竜鳳団子が最も有名で、「趙大有団子」と呼ばれる。

竜鳳団子は寧波の伝統名物として、その歴史は少なくとも南宋まで遡ることができる。民間では、次のような伝説がある。

南宋の康王趙構が、臨安に都を定めた後、金國の兵隊が長江を渡り、臨安に迫った。趙構が大臣と後妃などを連れて明州(寧波)に避難したが、一行は逃げて散り散りとなった。急難の際、鄞県農村の娘が金國の兵隊を騙して撤退させた。救助された康王が、我慢ができないほど腹が減り、村の娘に食を求めた。康王がもち米の団子をもらい、それを食べた後娘と別れた。臨安に戻った康王は、その娘の結婚式に、皇帝の車を使わせることを許した。そして、皇帝が食べたもち米の団子を「竜鳳金団」と封じた。

趙大有金団は、最初は上虞の趙氏によって作られた団子であった。その作り方は、もち米2キロに3キロのうるち米、4~10時間漬け、洗浄、磨く。餡子は750グラムのささげ或いは大豆に1キロの砂糖、炒め、更に適量の蜜柑、瓜、オレンジ、桂の花などを入れる。このように、上等な材料を使い、綿密に製作、安く売り、広く販売されているから、趙大有の店は早く人気を集めた。その後、一部の商人が利益のため、趙大有の商號を無斷に使い始めた。例えば寧波市內には、江東大戴家弄口の趙大有徳記、開明街の趙大有園記、西門口の趙大有莫記、鼓樓前の趙大有信記、開明街の趙大有文記、江北中馬路の趙大有祥記、倉橋の趙大有富記と江東後塘街の趙大有祥記支店など、どちらも菓子の名店になった。

団子は美味だけではなく、様々な寓意も含まれている。それぞれの用途に麵白い名前を與えている。田植えには田植団子、収穫には稲刈り団子、商売には団子、結婚には竜鳳団子、出産満月には子孫団子などの名稱を付けられる。

趙大有団子といえば、竜鳳団子が一番有名である。竜鳳団子は、外形が月のようで、麵には竜と鳳の浮き彫り、吉祥と団欒の意を表す。その特徴は、皮が薄く餡子が多い。軽やかな甘み、すがすがしい香りがする。いくら食べても飽きることなく美味しい。

慈城のお餅

春節の際、寧波人は必ず正月用品を準備する。そのうち、なくてはならない食品はもちである。寧波のもちにおいて、慈城産のもちが最も有名で、慈城餅とも呼ばれる。

年糕(もち)について、その発音には、年々発展という意味が託されているから、寧波地域では、「餅餅年年高くなり、今年は更に去年より良い」という諺がある。また、餅は貧富に関係なく、大衆食品として、大変人気がある。

中國において、餅の種類が多い。そのうち、江南地域の餅が最も多様である。例えば、モクセイ餅、モクセイ餡餅、ラード餅、水磨き餅などある。

中國人は特に長江以南の地區では、春節あるいは冬と春の間、餅を食する風習がある。その歴史は遅くとも 2000 年前に遡り、戦國時代の呉越に起源し、呉國將軍の伍子胥によって発明されたと伝えられている。

紀元前514年、呉王の闔閭が伍子胥に王城を建造するようと命じた。王城が完成後、呉王闔閭が戦死、息子の夫差が後を継いだ。夫差が伍子胥の「斉と連合し越と戦い」の主張を受けず、北上して斉を攻めた。呉國が將來きっと越國に滅ぼされると心配した伍子胥は、家臣たちに「私が死んである後、國難に遭い、飢え死になったとき、城壁の下を掘って食べ物を探しなさい」と言い付けた。伍子胥が死んだ後、確かに越國は呉國の城を囲み、城內には食糧は無くなり、多くの人が飢え死になった。その時、家臣たちが伍子胥の言い聞かせた言葉を思い出し、城門の下を掘って食物を探し始めた。城門の下で、多量の白米を蒸して作った煉瓦を発見、それが硬くて食料にもなる。百姓がこの「レンガ」を食べて生き殘った。