正文 第21章 近代西洋植民地主義の衝撃による東アジア諸國の関係変化(2)(1 / 3)

1868年、清の海関道である誌剛は蒲安臣使節団について西洋各國を訪問した際に、西洋國家の外交と儀禮慣習に深く印象づけられ、特にアメリカ國務長官が行った外交例會を「人臣に外交なしの趣旨とは異なる」⑤と稱賛した。

清朝は「人臣に外交なし」から「人臣が外交を行う」、さらには「親王外交」に至ったが、ここには中國半植民地外交の屈辱とやるせなさがあり、また中國と外國が相談して決めた方法、約束に従って行う國際的な外交の慣習もある。そして同時に中國近代外交が伝統的な閉鎖から近代的な開放へ進歩したのである。「人臣に外交なし」の思想體製は近代的な國家外交に移り変わった。東南アジアの伝統的な宗主國·屬國の関係が近代國家の関係へ発展変化したのは一つの歴史的必然であった。

注:

①『禮記正義』巻25、[清]阮元校訂『十三経注疏』下冊(印影本)、中華書局、1980年、総頁數1447頁。

②[米國]馬士(Hosea Ballou Morse)、張彙文ほか訳『中華帝國対外関係史』第1巻、生活·読書·新知三聯書店、1957年、144頁。

③ 文慶ほか編『籌辦夷務始末 道光朝』第5冊、中華書局、1964年、2261頁。

④ 賈楨ほか編『籌辦夷務始末 鹹豊朝』第7冊、中華書局、1979年、2334頁。

⑤ 誌剛『初使泰西記』、鐘叔河主編『走向世界叢書』嶽麓出版社、1985年、269頁。

(小林元裕 訳)

日本の植民地支配下における被害と連帯

新潟國際情報大學準教授 吉澤文壽

近代日本は日清戦爭を皮切りに、1920年代初めまでに日清戦爭からシベリア出兵まで五つの対外戦爭を起こし、その結果として、台灣·関東州·南樺太·朝鮮·南洋群島を次々と植民地化した。植民地台灣の獲得の際、日本軍は台灣、そして朝鮮で大規模な征服戦爭を展開し、それぞれ17,000人以上の台灣人、朝鮮人を虐殺した①。

日本の植民地支配は、強力な警察力·軍事力に支えられた暴力裝置にその特徴を見ることができる。そして、その暴力裝置は植民地化のみならず、植民地支配の過程でも引き続き機能する。1919年の三·一獨立運動の場合、朝鮮総督府は憲兵警察、常駐2個師団、さらに日本本土からの援軍によって運動の鎮圧に努めた。このときの日本側の暴力的対応は1923年の関東大震災の際に、官憲及び自警団による朝鮮人及び中國人合わせて約6000人の虐殺につながった。三·一運動後の朝鮮では憲兵警察製度が廃止されたものの、警察人員を3倍にするなど、暴力裝置の規模はむしろ拡大された。

そして、周知の通り、1931年の「満洲事変」を端緒として、日本は、日中戦爭、アジア·太平洋戦爭という15年戦爭を推進した。これらの戦爭を通じて、中國人1000萬人以上、朝鮮人20萬人以上、台灣人3萬人以上が死亡した。また、この時期に日本人も310萬人以上が死亡している②。

このような日本の植民地支配、侵略戦爭に対して、抑圧、弾圧された人々による抵抗意識及び運動は各地で高揚した。それらは各地で獨立的に展開したばかりでなく、「日帝打倒」を目指した地域橫斷的な連帯を模索した。例えば、先に見た三·一運動に対する各地の反応を見ると、中國では多くの朝鮮人運動家が活動していたことや、朝鮮に隣接していたこともあり、上海その他で中朝連帯行動が見られた。また、1920年代に入って、台灣の日本留學生たちの朝鮮留學生との交流が頻繁になった③。日本においても1927年5月から1935年3月まで活動した日本反帝同盟のように、反戦運動の中からアジアの人々との連帯を模索した日本人も現れた④。さらに、日本の労働運動、社會主義運動に多くの朝鮮人が參加していたことも明らかとなっている。

この時期の日本の行為によって死傷した被害者とその遺族たちがその被害を訴えることができるようになったのは冷戦終結後のことである。日本軍軍人·軍屬、強製連行·強製労働、日本軍慰安婦、広島·長崎での被爆者など、その被害の類型は様々である。日本政府はこれらの被害者たちにほとんど補償措置をとっていない。