第36節(1 / 3)

、一人で夕食の支度をしているとなると、君はおそらく獨身なんだろうな?」

「そうだよ」と僕は言った。「結婚して、離婚した」

「じゃあ、僕と一緒だ」と彼は言った。「結婚して、離婚した。それで慰謝料は払ってる?」

「払ってない」と僕は言った。

「一銭も?」

僕は首を振った。「受け取らないんだ」

「幸運な男だ」と彼は言った。そしてにっこりと笑った。「僕も慰謝料は払ってないけど、結婚のせいで一文なしになっちゃった。僕の離婚の話は少しは知ってる?」

「漠然と」と僕は言った。彼はそれ以上は何も言わなかった。

彼は四年か五年前に人気女優と結婚して、二年ちょっとで離婚していた。週刊誌がそれについてはいろいろと書きまくった。例によって真相はよくわからない。でも結局は相手の女優の家族と彼との折り合いが悪かったということらしかった。よくあるケースだ。相手の女優には公私両麵にわたってタフな親族がぎっしりとしがみついている。彼の方はどちらかといえば坊ちゃん育ちで、のんびりとひとりで生きてきたというタイプだ。上手くいくわけがない。

「不思議な話だ。この間まで一緒に理科の実験をしてたと思ったら、次に會ったときはどちらも離婚経験者ときてる。不思議だと思わない?」とかれはにこやかに言った。そしてひとさし指の先で瞼を軽く撫でた。「ところで、君の方はどうして離婚することになったの?」

「すごく簡単だよ。ある日女房が出ていったんだ」

「突然?」

「そう。何も言わずに。突然出ていった。予感すらなかった。家に帰ったらいなかった。何処かに買い物にでも行ったんだろうと僕は思っていた。それで晩飯を作って待っていた。でも朝になっても帰ってこなかった。一週間経っても、一カ月経っても帰ってこなかった。それから離婚請求の用紙が送られてきた」

彼はそのことについてしばらく考えていた。そして溜め息をついた。「こういう言い方は君を傷つけるかもしれないけど、でも君は僕より幸せだと思う」と彼は言った。

「どうして?」と僕は訊いた。

「僕の場合、女房は出ていかなかった。僕が叩き出されたんだ。文字通り。ある日叩きだされた」そして彼はガラス越しにじっと遠くの方を見た。「ひどい話だよ。何から何まで計畫的だったんだ。きちんと全部計畫されてたんだ。詐欺と同じさ。知らないうちにいろんなものの名義がどんどん書き換えられていた。あれは実に見事なものだった。僕はそんなこと何ひとつ気がつかなかった。僕は彼女と同じ稅理士に頼んでいて任せきりにしてたんだ。信用していた。実印だって、証書だって、株券だって、通帳だって、稅金の申告に必要だから預けろと言われれば何の疑問も抱かずに預けた。僕はそういう細かいことは苦手だし、任せられるものなら任せたいものね。ところがそいつが向こうの親戚とつるんでいたんだな。気がついたら僕はきれいに一文なしになっていた。骨までしゃぶられたようなもんだ。そして僕は用の無くなった犬みたいに叩きだされた。いい勉強になった」そして彼はまたにっこりと笑った。「それで僕も少し大人になった」

「もう三十四だよ。みんな嫌でも大人になる」と僕は言った。

「たしかにそうだ。そのとおりだ。君の言うとおりだよ。でも、人間って不思議だよ。一瞬で年を取るんだね。まったくの話。僕は昔は人間というものは一年一年順番に年をとっていくんだと思ってた」と五反田君は僕の顔をじっとのぞきこむようにして言った。「でもそうじゃない。人間は一瞬にして年を取るんだ」