五反田君が連れていってくれたのは六本木のはずれの靜かな一角にある見るからに高級そうなステーキハウスだった。
玄関にメルセデスを停めると、店の中からマネージャーとボイが出てきて我々を迎えた。五反田君は一時間ほどしてから來てくれと運転手に言った。メルセデスはききわけの良い巨大な魚のように、音もなく夜の闇の中に消えていった。僕らは少し奧まった壁際の席に通された。店の中はファッショナブルな服裝の客ばかりだったが、コーデュロイパンッとジョギングシューズという格好の五反田君がいちばんシックに見えた。どうしてかはわからない。でもとにかく彼はどうしようもなく目立つのだ。我々が中に入っていくと客はみんな目を上げて彼の方をちらりと見た。そして二秒だけ見てから視線をもとに戻した。たぶんそれ以上長く見るのは失禮にあたることなのだろう。複雑な世界だ。
僕らは席につくとまずスコッチの水割りを注文した。「別れた女房たちのために」と彼は言った。そして僕らはウィスキーを飲んだ。
「馬鹿気た話だけど」と彼は言った。「僕は彼女のことがまだ好きなんだ。あんなにひどい目にあったっていうのに、それでもまだ僕は彼女のことが好きだ。忘れられない。他の女が好きになれない」
僕はクリスタルのタンブラーの中のものすごく上品な形に割られた氷を眺めながら肯いた。
「君はどう?」
「僕が別れた女房のことをどう思うかってこと?」と僕は訊いた。
「そう」
「わからない」と僕は正直に言った。「僕は彼女に行って欲しくなかった。でも彼女は行ってしまった。誰が悪いのかはわからない。でもそれは起こってしまったことだし、もう既成事実なんだ。そして僕は時間をかけてその事実に馴れようとしてきたんだ。それに馴れるという以外のことは何も考えないようにしてきた。だからわからない。
「うん」と彼は言った。「ねえ、こういう話は君にとって苦痛かな?」
「そんなことはない」と僕は言った。「これは事実なんだよ。事実を避けるわけにはいかない。だから苦痛というんじゃないね。よくわからない感覚だ」
彼はぱちんと軽く指を鳴らした。「そう、それだよ。よくわからない感覚。まさにそのとおりだ。引力が変化しちゃったょうな感覚。苦痛ですらない」
ウェイターがやってきて、僕らはステーキとサラダを注文した。ふたりとも焼き具合はミディアムレアだった。それから僕らは二杯目の水割りを注文した。
「そうだ」と彼は言った。「君は僕に何か用事があるんだったね。先にそれを聞いておこう。酔っぱらわないうちにね」
「ちょっと変な話なんだ」と僕は言った。
彼は気持ちの良い笑顔を僕に向けた。よく訓練されてはいるけれど、嫌味のない笑顔だった。
「変な話って好きだよ」と彼は言った。
「このあいだ君の出た映畫を見た」と僕は言った。
「『片想い』」と彼は眉をしかめて、小さな聲で言った。「ひどい映畫。ひどい監督。ひどい腳本。いつもと同じだ。あの映畫に関わった人間はみんなあのことは忘れたがっている」