夜と一昨日の夜の區別がつかない。一昨日の夜とその前日の夜の區別がつかない。不幸なことだが、事実なのだ。僕はしばらく黙って考えていた。思い出すのに時間がかかる。
「あんたね」と漁師が言った。そして咳払いした。「法律的なことなんたらかんたら言い出すとけっこう時間かかりますよ。ただ単に簡単なことを聞いてるだけなんですからね。昨日の夕方から今日の朝まで何してたか。簡単なことじゃないですか。答えてくれたって損はないでしょ?」
「だから今考えてるんですよ」と僕は言った。
「考えないと思い出せないの?昨日のことですよ。去年の八月のことを尋ねてるわけじゃないです。考える餘地もないでしょうが」と漁師が言った。
だからそれが思い出せないんだよ、と言おうかと思ったが言わなかった。たぶんそういう記憶の一時的欠落なんて彼らには理解できないだろう。頭がおかしいと思われるのがおちだ。
「待ちますよ」と漁師は言った。「待つからゆっくりと思い出してちょうだい」そして彼は上著のポケットからセブンスターを出して、ビックのライターで火をつけた。「あんた、吸う」
「いらない」と僕は言った。先端的都市生活者は煙草を吸わないと『ブルータス』に書いてあった。でも二人はそんなことにはお構いなく美味そうに煙草を吸った。漁師はセブンスターを吸い、文學はショートホープを吸った。二人ともチェーンスモーキングに近かった。彼らは『ブルータス』なんか読まないのだ。全然トレンディーじゃない人達なのだ。
「五分待ちましょう」と文學が相変わらず表情のない平板な聲で言った。「その間に何とかちゃんと思い出していただけませんでしょうかね。昨日の夜、何処で何してたか」
「だからね、この人インテリなんだよ」と漁師が文學のほうを向いて言った。 「調べたら前にも取り調べ受けてた。ちゃんと指紋が登録されてた。學生運動。公務執行妨害。書類送検。こういうのになれてるんだ。筋金入りなんだよ。警察が嫌いなんだ。法律にも詳しい。憲法で保障された國民の権利とかそういうことをちゃんと詳しく知ってる。もうすぐ弁護士を呼べって言い出すよ」
「でも我々は任意同行してもらって、ごく簡単な質問してるだけですよ」と文學がいかにも驚いたという風に漁師に言った。「何も逮捕するとかそういうことを言ってるわけじゃないですよ。よくわからないな。弁護士を呼ぶ理由なんてなにもないでしょう?どうしてそういうややこしい考え方をするんだろう?理解に苦しみますねえ」
「だからさ、私は思うんだけど、この人はただ単に警察が嫌いなんじゃないかな。警察と名のつくものがとにかく何でも生理的に嫌いなんだよ。パトカーから交通巡査まで。だからそんなものになんか死んでも協力したくないと思っているんだろうね」と漁師が言った。
「でも大丈夫ですよ。はやく答えれば、はやく家に帰れるんだから。実際的なものの考え方ができる人ならきっとちゃんと応えてくれますよ。それにね、昨日の夜何をしてたかっていう質問されただけで弁護士呼んだって來やしませんよ。弁護士さんだって忙しいんだから。インテナならそれくらいのことわかりますよ」
「まあね」と漁師は言った。「そういうことをきちんとわかっていただければ、お互い時間が節約できるというものだわな。こっちだって忙しいし、この人だって忙しいだろう。長引くとお互い時間の無駄だし、それに疲れる。これが結構疲れるんだ」