第44節(2 / 3)

かけあい漫才が続いているうちにその五分が過ぎた。

「さて」と漁師が言った。「どうでしょう、何か思い出していただけましたかね?」

思い出せなかったし、思い出そうという気も起きなかった。そのうちにたぶん思い出すだろう。でもとにかく今は思い出せない。記憶が欠落したまま戻ってこないのだ。「どういうことなのか、まず事情が知りたいですね」と僕は言った。「事情がわからないことには何も言えない。事情がわからないうちに、不利なことは言いたくない。それにまず事情を説明してから質問するのが人の禮儀だ。あなたたちのやってることは全然禮儀にかなってない」

「不利なことは言いたくない」と文學が文章を検証するように繰り返した。 「禮儀にかなってないだって」

「だからインテリだって言っただろう」と漁師が言った。「ものの見方がひねくれているんだね。警察が嫌いなんだ。朝日新聞をとって『世界』を読んでるんだ」

「新聞なんかとってないし、『世界』も読んでない」と僕は言った。「とにかくどういうわけで僕がここに連れてこられたか教えてくれないうちは何も喋りたくないですね。こづきまわすんなら好きなだけこづきまわしていい。こっちはどうせ暇なんだ。時間なんかいくらでもある」

二人の刑事はちらっと顔を見合わせた。

「事情を教えたら質問に答えてもらえますかね?」と漁師が言った。

「たぶん」と僕は言った。

「この人にはさりげないユーモアの感覚があるね」と文學が腕組みをして壁 の上の方を見ながら言った。「たぶん、だって」

漁師が鼻の上に真橫についた傷を指の腹でさすった。刃物の傷みたいに見えた。けっこう深く、まわりの肉がひきつっていた。「あのですね」と彼は言った。「私ら、忙しいんですよ。それに真剣なんです。早くこれかたづけてしまいたいんです。私らだって好きでこれやってるわけじゃないです。できることなら夕方の六時には家に帰って、家族と一緒にゆっくりと飯を食べたい。私らあんたに別に恨みもないし、含むところもない。あんたが昨日の夜どこにいて何してたかそれを教えてくれたら、それ以上何も要求しない。やましいことがなかったら教えてまずいこともないでしょう?それとも何かやましいところがあるから言えないの?」

僕はテーブルの上のガラスの灰皿をじっと眺めていた。

文學が手帳をぱたんと叩いてからポケットにしまった。三十秒ばかり誰も何も言わなかった。漁師がまたセブンスターをくわえて火をつけた。-本-作-品-由-思-兔-網-提-供-線-上-閱-讀-

「筋金入りなんだ」と漁師が言った。

「人権擁護委員會でも呼ぶ?」と文學が言った。

「あのね、こういうの人権でもなんでもないんだよ」と漁師が言った。「こういうのは市民の義務なんだよ。市民は警察の捜査にできる限り協力せにゃならんって、ちゃんと法律にも書いてあるんだよ。あんたの好きな法律にもちゃんとそう書いてあるんです。どうしてそんなに警察を毛嫌いするんですか?あんただって警官に道を訊いたことくらいあるでしょう?泥棒が入ったら警察に電話かけるでしょう?もちつもたれつじゃないですか。どうしてこんな簡単なことで協力してくれないんです。本當に簡単な形式的質問じゃないですか?昨日の夜、あなたは何処で何してたか?ややこしいことなしで早く済ませちゃいましょう。そうすれば我々も次に進める。あんたも家に帰れる。萬事オーケーです。そう思いませんか?」