第44節(3 / 3)

「まず、事情を知りたいですね」と僕は繰り返した。

文學がポケットからティッシュベーパーを出し、大きな音を立てて洟をかんだ。漁師は機の引きだしからプラスティックの定規を出して、手のひらをぱたぱたと叩いた。

「あんた、わかってるのかな?」と文學がティッシュベーパーを機の脇のごみ箱に捨てながら言った。「あんたは自分の立場をどんどん悪くしてるんですよ」

「なあ、今は一九七○年じゃないんだよ。あんたとここで反権力ごっこしてる暇はないの」とうんざりしたように漁師が言った。「ああいう時代はね、終わったんだよ。それで、私もあんたもみんなこの社會にきちっと埋めこまれてるの。権力も反権力もないんだよ、もう。誰もそういう考え方はしないんだよ。大きな社會なんだ。波風を立てても、いいことなんか何もないのよ。システムがね、きちっとできちゃってるの。この社會が嫌ならじっと大地震でも待ってるんだね。穴でも掘って。でも今ここでつっぱったって何の得もないよ、お互い。消耗だよ。インテリならそういうことわかるでしょうが?」

「まあね、僕らもちょっと疲れていて、ロのきき方がいささか荒っぽかったかもしらん。だとしたら悪かった。謝りますよ」と文學が手帳をまたぱらぱらと繰りながら言った。「でもね、僕らも疲れてるんだよ。働きっぱなしに働いてる。昨日の夜から殆ど寢てない。子供の顔をもう五日も見てない。ろくに飯も食ってない。あんたの気にいらないかもしれないけど、僕らだって僕らなりに社會の為に働いているんです。そこにあんたが出てきてつっぱらかって何も答えてくれない。そりゃあいらいらもしますよ。わかるでしょう?あんたが自分の立場を悪くしてるというのはね、結局僕らも疲れるとどんどん機嫌が悪くなるってことなんだよね。簡単に済ませられるはずのことも簡単に済まなくなってくる。物事がこじれてくる。もちろんあんたが頼れる法律はある。國民の権利もある。でもそういうのを運用するのは時間がかかる。時間がかかるあいだ、あんたは不愉快な目にあうかもしれない。法律というのはすごくこみいっていて、手間がかかるもんだからね、どうしても現場の運用次第というところはあるよね。理解してもらえるかな、そういうの?」

「誤解されると困るけど、別に威してるんじゃないよ」と漁師が言った。「忠告してるんだ、彼は。我々だってあんたを不快な目にあわせたいと思ってるわけじゃない」

僕は黙って灰皿を見ていた。灰皿には何のしるしもついていなかった。ただ古くて汚いガラスの灰皿だった。最初は透明だったのだろうが、今ではもうそうではなかった。白く濁って、隅にはヤニがこびりついていた。何年くらいこの機の上に載っているんだろう、考えてみた。十年は載ってるな、と僕は想像した。