で泳いだりした。彼はけっこう上手く泳ぐこともできた。ユキと母親はその間二人きりで話をしていた。彼女たちがどんなことを話していたのか、僕は知らない。ユキはそれについては何も言わなかったし、僕も別に聞かなかった。僕はレンタカーを借りて彼女をマカハまで送り屆け、ディックノースと世問話をしたり泳いだりサーファーを眺めたりビールを飲んで小便したりし、また彼女をホノルルに連れて帰ってくるだけだった。
一度ディックノースがロバートフロストの詩を朗読するのを聞いた。詩の內容まではもちろんわからなかったけれど、なかなか上手い朗読だった。リズムが美しく、情感がこもっていた。現像したばかりのまだ濡れているアメの寫真を見たこともある。ハワイの人々の顔を寫した寫真だった。何でもない普通のポートレイトなのだが、彼女が寫すとどの顔もいきいきとして、生命の核とでもいうべきものを浮かび上がらせていた。南國の島に生きる人々の素直な優しさや、下品さや、ひやりとするような酷薄さや、生きる喜び、寫真から直接に伝わってきた。パワフルで、なおかつ靜かな寫真だった。才能、と僕は思った。「僕とも違うし、あなたとも違う」とディックノースは言った。そのとおりだ。見るだけでわかる。
僕がユキの麵倒を見ているようにディックノースはアメの麵倒を見ていた。でももちろん彼の方が遙かに本格的だった。彼が掃除をし、洗擢をし、料理を作り、買い物をし、詩を朗読し、冗談を言い、煙草の火を消してまわり、歯を磨いたかと尋ね、タンパックスを補充し(一度僕は彼の買い物に同行したのだ)、寫真をファイルし、タイブライターを使ってきちんとした彼女の作品目録を作った。彼はそれを全部片腕でやっていたのだ。それだけやったあとで、自分の創作にむけるための時間が彼に殘されているとは、僕にはとても思えなかっ
た。かわいそうな男だ、と僕は思った。でも考えてみたら、僕だって彼に同情できるような立場にはなかった。ユキの麵倒を見るのと引き換えに父親に飛行機代とホテル代を出してもらい、その上女まで買ってもらっている。どう見てもどっこいどっこいだ。
母親の家を訪問しない日には、僕らはサーフィンの練習をしたり、泳いだり、ただ何をするともなくビーチに寢転んだり、買い物をしたり、レンタカーを借りて島のあちこちをまわったりした。夜になると僕らは散歩をし、映畫を見て、ハレクラニかロイャルハワイアンのガーデンバーでピナコラーダを飲んだ。僕は暇にまかせていろんな料理を作った。我々はリラックスし、指先まで綺麗に日焼けした。ユキはヒルトンのブティックでトロピカルな花柄の新しいビキニを買ったが、それを身につけるとハワイで生まれて育った少女のように見えた。サーフィンの腕もかなり上達して、僕がとても捕まえられないような小さな波を上手に乗りこなした。ストーンズのテーブを何本か買って、毎日繰り返し聴いていた。僕が飲み物を買いにいったりする時にユキをひとりでビーチに殘していくと、いろんな男が彼女に話しかけてきた。でもユキは英語が話せなかったから、そういう男たちを一○○パーセント無視していた。僕が帰ってくると彼らはみんな「失禮」と言って(あるいはもっとひどいことを言って)去っていった。彼女は黒く、美しく、健康だった。そしてとてもリラックスして毎日を楽しんでいた。