第98節(1 / 3)

た。林間學校では三時に晝寢の時間があった。でも僕はとても晝寢なんかできなかった。さあ眠りなさいと言われて眠れるわけがないじゃないか、と僕は思った。でも大抵の人間はぐっすりと眠っていた。僕は一時間ずっと天井を見ていた。ずっと天井を見ていると、天井が獨立した世界みたいに思えてくる。そこに行けばこことはまったく違う世界に入り込めるような気がする。価値の転換した上下逆の世界。『鏡の國のアリス』みたいに。僕はずっとそんなことを考えていた。だから僕が林間學校で思い出せるのは天井のことだけだ。かっこう。

後ろのセドリックがクラクションを三回鳴らした。信號が青に変わっていた。落ち著けよ、と僕は思った。急いだって、それほど立派な場所に行けるわけでもないだろう?僕はゆっくりと車を出した。

とにかく夏だ。

僕がマンションの玄関のベルを押すと、ユキはすぐに下に降りてきた。彼女は上品なプリント地の半袖のワンピースにサンダルをはき、深い青色の革のショルダーバッグを肩にかけていた。

「今日はシックななりをしてるね」と僕は言った。

「二時から人に會うって言ったでしょう」と彼女は言った。

「とてもよく似合うよ。品がいい」と僕は言った。「大人になったみたいに見える」

彼女は微笑んだだけで何も言わなかった。

僕らは近くのレストランに入って、スープとスパゲッィのサーモンソースとすずきとサラダというランチを食べた。まだ十二時になっていなかったから店はすいていたし、味もまともだった。十二時をすぎてサラリーマンがどっと街に繰り出す頃に僕らは店を出て、車に乗った。

「どこかに行く?」と僕は訊いた。

「どこにもいかない。ただぐるぐるとその辺を回っていて」とユキは言った。

「反社會的行為だ。ガソリンの無駄づかいだ」と僕は言った。でも彼女はとりあわなかった。聞こえないふりをしていた。まあいいさ、と僕は思った。どうせもともとひどい街なんだ。もう少し空気が汚れたからといって、もう少し交通が混雑したからと言って、誰がそんなこと気にするだろう?

ユキはカーステレオのボタンを押した。中にはトーキングへッズのテープが入っていた。たぶん『フェアオブミュージプク』。いったいいつ入れたんだろう?いろんなことが記憶から欠落している。

「私、家庭教師につくことにしたの」と彼女は言った。「それで今日その人に會うの。女の人。パパがみつけてきてくれたの。勉強がしたくなったってパパに言ったら、あの人あくる日にはちゃんとみつけてくれた。きちんとした良い人だって。変な話だけど、あの映畫見てたら何だか勉強したくなったの」

「あの映畫?」と僕は聞き返した。「『片想い』のこと?」

「そうよ。あれよ」と言ってユキは少し赤くなった。「馬鹿みたいだとは思うわよ、自分でも。でもとにかくあの映畫を見たあと急に勉強したくなったの。たぶんあなたのお友達が先生の役をやってるのを見たせいだと思う。あの人、見てる時は馬鹿みたいだと思ったけど、でも何か訴えるところがあるみたいね。才能があったのかしら」

「そうだね。ある種の才能があった。それは確かだ」

「うん」

「でももちろんあれは演技でありフィクションだ。現実とは違う。それはわかるね?」