第105節(1 / 2)

った。だって僕はユミヨシさんを愛していたのだ。そしてキキの時と同じように僕は壁を抜けた。前と同じだった。不透明な空気の層。ざらりとした硬質な感觸。水のような冷やかさ。時間が揺らぎ、連続性がねじ曲げられ、重力が震えた。太古の記憶が時の深淵の中から蒸気のように立ちあがっているのが感じられた。それは僕の遺伝子なのだ。僕は自分の肉の中に進化のたかぶりを感じた。

僕はその複雑に絡み合った巨大な自分自身のDNAを越えた。地球が膨らみ、そして冷えて縮んだ。洞窟の中に羊が潛んでいた。海は巨大な思念であり、その表麵に音もなく雨が降っていた。顔のない人々が波打ち際に立って沖を見つめていた。終りのない時間が巨大な糸玉となって空に浮かんでいるのが見えた。虛無が人々を呑み、より巨大な虛無がその虛無を呑んだ。人々の肉が溶け、白骨が現れ、それも塵となって風に吹きとぱされた。非常に完全に死んでいる、と誰かが言った。かっこう、と誰かが言った。業の肉は分解し、はじけ飛び、そしてまたひとつに凝結した。

その混亂とカオスの空気の層を抜けると、僕は裸でベッドの中にいた。あたりは真っ暗だった。漆黒の闇というのではない。でも何も見えなかった。僕は一人だった。手をのばしたが、隣りには誰もいなかった。僕は孤獨だった。僕はまた一人ぼっちで世界の端に取り殘されたのだ。「ユミヨシさん!」と僕は聲を限りに叫んだ。でも実際には叫び聲は出てこなかった。乾いた息が洩れただけだった。僕はもう一度叫ぼうとしたが、そのときぱちんという音が聞こえ、フロアスタンドが點いた。部屋がさっと明るくなった。

そしてユミヨシさんはそこにいた。彼女は白いブラウスとスカートに黒い靴という格好でソファに座り、優しく微笑みながら僕を見ていた。ライティングデスクの椅子の背にはライトブルーのブレザーコートが彼女の分身のようにかかっていた。僕の體をこわばらせていた力が、ねじをゆるめるようにゆっくり少しずつその力をゆるめていった。僕は自分が右手でぎゅっとシーツを握りしめていたことに気づいた。僕はシーツから手を放し、顔の汗を拭った。ここはこちら側なんだろうか、と僕は思った。この光は本物の光なんだろうか?

「ねえ、ユミヨシさん」と僕はかすれた聲で言った。

「なあに?」

「君は本當にそこにいるの?」

「もちろん」と彼女は言った。

「何処にも消えてないんだね?」

「消えてない。そんなに簡単に人は消えないのょ」

「夢を見てた」と僕は言った。

「知ってるわ。じっとあなたのことを見てたの。あなたが眠って夢を見て私 の名前を呼んでるのを見てたの。真っ暗な中で。ねえ、何かを真剣に見ようとすれば、真っ暗な中でもちゃんと見えるものなのね」

僕は時計を見た。四時少し前だった。夜明け前の小さな時間。思いが深まり屈曲する時間。僕の體は冷えて、まだ固くこわばっていた。あれは本當に夢だったんだろうか?あの闇の中で羊男は消え、そしてユミヨシさんも消えた。僕はその時の行き場のない絶望的な孤獨感をはっきりと思い出すことができた。ユミヨシさんの手の感觸を思い出すこともできた。それはまだ僕の中にしっかりと殘っていた。それは現実以上にリアルだった。現実はまだ十分なリアリティーを取り戻してはいなかった。

「ねえ、ユミヨシさん」と僕は言った。

「なあに?」

「どうして服を著てるの?」

「服を著てあなたを見ていたかったの」と彼女は言った。「なんとなく」

「もう一度脫いでくれないかな?」と僕は訊いた。僕は確かめたかったのだ。彼女がちゃんここにいるということを。そしてこれがこちらの世界なんだということを。

「もちろん」と彼女は言った。彼女は時計を外してテーブルの上に置いた。靴を脫いで床に揃えた。ブラウスのボタンをひとつずつ外し、ストッキングを脫ぎ、スカートを脫ぎ、それからきちんと畳んだ。眼鏡をとって、いつものようにかたんという音を立ててテーブルに置いた。そして裸足で音もなく床を橫切り、毛布をそっと持ち上げて僕のとなりに入ってきた。僕は彼女をしっかりと抱き寄せた。彼女の體は溫かく、滑らかだった。そしてきちんと現実を持っていた。