「消えてない」と僕は言った。⊥思⊥兔⊥網⊥
「もちろん」と彼女は言った。「言ったでしょう、そんなに簡単に人は消えないのよ」そうだろうか、と僕は彼女を抱きしめながら思った。いや、どんなことだって起こり得るんだ、と僕は思った。この世界は脆く、そして危ういのだ。この世界ではあらゆることが簡単に起こり得るのだ。そしてあの部屋にあった白骨はまだ一つ殘っているのだ。あれは羊男の骨だったのだろうか?それとも別の誰かの死が僕のために用意されているのだろうか?いやあるいはあの白骨は僕自身のものかもしれない。それはあの遠く薄暗い部屋で僕の死をじっと待ちつづけているのかもしれない。僕は遠くでいるかホテルの音を聞いた。まるで遠くから風に乗って聞こえてくる夜汽車の音のように。エレベーターがごとごとごとごとという音を立てながら上り、そして止まった。誰かが廊下を歩いていた。誰かがドアを開け、誰かがドアを閉めた。いるかホテルだ。僕にはそれがわかる。何もかもが軋み、何もかもが古びた音を立てた。僕はそこに含まれていた。誰かが僕のために涙を流していた。僕が泣けないもののために誰かが涙を流しているのだ。
僕はユミヨシさんの瞼に唇をつけた。
ユミヨシさんは僕の腕の中でぐっすりと眠った。僕は眠ることができなかった。僕の體の中には一片の眠りも存在しなかった。まるで幹あがった井戸のように僕は目覚めていた。僕は彼女の體をつつみこむようにそっと抱きつづけていた。時々聲を出さずに泣いたた。僕は失われたもののために泣き、まだ失われていないもののために泣いた。でも実際にはほんの少し泣いただけだった。ユミヨシさんの體は柔らかく、そして僕の腕の中で溫かく時を刻んでいた。時間が現実を刻んでいた。やがて靜かに夜が明けた。僕は顔を上げて、枕もとの目覚まし時計の針が現実の時間にあわせてゆっくり回転するのをじっと見ていた。少しずつ少しずつそれは前に進んでいた。僕の腕の內側にユミヨシさんの息がかかって、その部分だけが溫かく濕っていた。
現実だ、と僕は思った。僕はここにとどまるのだ。
やがて時計の針は七時を指し、夏の朝の光が窓から差し込んで、部屋の床にほんの少しだけ歪んだ四角い図形を描いた。ユミヨシさんはぐっすりと眠っていた。僕は靜かに彼女の髪を上げて耳を出し、そこにそっと唇をあてた。なんて言えばいいのかな、と僕はそのまま三分か四分くらい考えていた。いろんな言い方がある。様々な可能性があり、表現がある。上手く聲が出るだろうか?僕
のメッセージは上手く現実の空気を震わせることができるだろうか?いくつかの文句を僕は口の中で呟いてみた。そしてその中からいちばんシンプルなものを選んだ。
「ユミヨシさん、朝だ」と僕は囁いた。
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