跡は欷歔の聲のみ。我眼はこのうつむきたる少女の顫ふ項にのみ注がれたり。

「君が家に送り行かんに、先づ心を鎮め玉へ。聲をな人に聞かせ玉ひそ。こゝは往來なるに。」彼は物語するうちに、覚えず我肩に倚りしが、この時ふと頭を擡げ、又始てわれを見たるが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。

人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潛るべき程の戸あり。少女はさびたる針金の先きを捩ぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中には咳枯れたる老媼の聲して、「誰ぞ」と問ふ。エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあらゝかに引開けしは、半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし麵の老媼にて、古き獣綿の衣を著、汚れたる上靴を穿きたり。エリスの餘に會釈して入るを、かれは待ち兼ねし如く、戸を劇しくたて切りつ。

餘は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。內には言ひ爭ふごとき聲聞えしが、又靜になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無禮の振舞せしを詫びて、餘を迎へ入れつ。戸の內は廚にて、右手の低きに、真白に洗ひたる麻布を懸けたり。左手には粗末に積上げたる煉瓦の竈あり。正麵の一室の戸は半ば開きたるが、內には白布を掩へる臥床あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戸を開きて餘を導きつ。この処は所謂「マンサルド」の街に麵したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏よりに向ひて斜に下れる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭の支ふべき処に臥床あり。中央なる機には美しき氈を掛けて、上には書物一二巻と寫真帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。そが傍に少女は羞を帯びて立てり。

跡は欷歔の聲のみ。我眼はこのうつむきたる少女の顫ふ項にのみ注がれたり。

「君が家に送り行かんに、先づ心を鎮め玉へ。聲をな人に聞かせ玉ひそ。こゝは往來なるに。」彼は物語するうちに、覚えず我肩に倚りしが、この時ふと頭を擡げ、又始てわれを見たるが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。

人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潛るべき程の戸あり。少女はさびたる針金の先きを捩ぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中には咳枯れたる老媼の聲して、「誰ぞ」と問ふ。エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあらゝかに引開けしは、半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし麵の老媼にて、古き獣綿の衣を著、汚れたる上靴を穿きたり。エリスの餘に會釈して入るを、かれは待ち兼ねし如く、戸を劇しくたて切りつ。

餘は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。內には言ひ爭ふごとき聲聞えしが、又靜になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無禮の振舞せしを詫びて、餘を迎へ入れつ。戸の內は廚にて、右手の低きに、真白に洗ひたる麻布を懸けたり。左手には粗末に積上げたる煉瓦の竈あり。正麵の一室の戸は半ば開きたるが、內には白布を掩へる臥床あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戸を開きて餘を導きつ。この処は所謂「マンサルド」の街に麵したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏よりに向ひて斜に下れる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭の支ふべき処に臥床あり。中央なる機には美しき氈を掛けて、上には書物一二巻と寫真帖とを列べ、陶瓶にはこゝに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。そが傍に少女は羞を帯びて立てり。