驚きしも宜なりけり、蒼然として死人に等しき我麵色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は蓬ろと亂れて、幾度か道にて跌き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪によごれ、処々は裂けたれば。
餘は答へんとすれど聲出でず、膝の頻りに戦かれて立つに堪へねば、椅子を握まんとせしまでは覚えしが、その儘に地に倒れぬ。
人事を知る程になりしは數週の後なりき。熱劇しくて譫語のみ言ひしを、エリスが慇にみとる程に、或日相沢は尋ね來て、餘がかれに隠したる顛末を審らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕ひ置きしなり。餘は始めて、病牀に侍するエリスを見て、その変りたる姿に驚きぬ。彼はこの數週の內にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬は落ちたり。相沢の助にて日々の生計には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。
後に聞けば彼は相沢に逢ひしとき、餘が相沢に與へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄に座より躍り上がり、麵色さながら土の如く、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵れぬ。相沢は母を呼びて共に扶けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲団を噛みなどし、また遽に心づきたる様にて物を探り討めたり。母の取りて與ふるものをば悉く拋ちしが、機の上なりし繈褓を與へたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。
これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廃して、その癡なること赤児の如くなり。醫に見せしに、過劇なる心労にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの繈褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔す。餘が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。たゞを/\思ひ出したるやうに「薬を、薬を」といふのみ。
餘が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を濺ぎしは幾度ぞ。大臣に隨ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢と議りてエリスが母に微なる生計を営むに足るほどの資本を與へ、あはれなる狂女の胎內に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一點の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。
驚きしも宜なりけり、蒼然として死人に等しき我麵色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は蓬ろと亂れて、幾度か道にて跌き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪によごれ、処々は裂けたれば。