唐?宋代以來、寧波(明州)は浙江省東部の政治、経済、思想文化の中心の一つとなった。寧波は中國の重要な対外貿易港として、宋?元代には海外貿易が非常に盛んであった。
寧波人は商売が得意ばかりでなく、學問においても優勢をよく示している。ここに人材がそろっていて、空の星のように散らばり、政治家、思想家、光學家、文學家などといった名家が大量に現れた。唐代初期の書道家虞世南、北宋慶歴年間の明州五先生、南宋孝宗時期の宰相史浩、淳熙甬上の四先生、宋代末期の王応麟、黃震、元代の文學家戴表元、張可久、それから明代の方孝孺、王守仁、範欽、清代の朱舜水、黃宗羲、沈先文、張煌言、萬斯同、全祖望などが數えられ、彼らは中華民族の発展史において輝かしい一部を殘した。
7000 年の文明史を持っている寧波は、その文化の歴史が長くて、従來「文獻の邦」という美稱も有している。現在になって、我々はちょっとぐらいあの塵埃に封じられた歴史から寧波の文化の中身を探ってみても、すぐに、この寧波という土地にはこれほど大勢の著名な思想家、哲學家、文學家、書道家、科學家たちが生まれたこと、そして彼らは長い歴史において、十分に中國文化の発展を代表できる偽りのない足跡を殘してくれたということが明らかに分った。官途についた人であれ、田舎に落ちぶれた人であれ、彼らの名前はすでに歴史の中に凝固され、彼らの思想や行跡は後世の寧波人に対する貴重な精神的な寶物と成すものである。
虞世南
虞世南、字は伯施という。越州(今浙江省)餘姚の出身で、享年は81歳(南朝陳武帝2年[558年]~唐太宗貞観12年[638年])である。少年時代に顧野王のもとで學び、10 年続き向學心が強く、詩文に長じていて世で有名である。
虞世南は南朝の陳(陳武帝)、ついで隋の二つの朝代に仕えたのち、唐に帰した。唐に入ると弘文館の學士に任じられ、秘書監にまで昇りつめ、貞観7年に永興県の県公に封せられた(それ故「虞永興」とも呼ばれる)。彼は太宗にかなり尊敬されていて、死後、儀部尚書に賜られた。功臣24人のうちの一人として、描かせた像が淩煙閣に遺された。唐太宗は「世南ただ一人に、群を抜いた文才あり、五絶(徳行、忠直、博文、文辭、書翰)を備えている。」と仰せられ、彼を稱揚した。
虞世南は幼少の時、王羲之の第七世孫とする有名な書道家の智永禪師について書法を學んだ。智永本人よりの伝授を受け、「二王」と智永の筆法の意を巧みに得た故、其の書は、豊かな風韻のほか、「外柔內剛」と言われたように內に剛柔を蔵していて、融通無礙にした力がこもっている。評価によれば、それは、スカートの帯のようにひらひらとしているが、行動するとすぐその身に束ねられ、見たら犯すことができないと分かる。智永の指導を得た其の書法は、「二王」の正統に根ざして、絶好な効果が現れた。書道においては、魏晉の端緒を受け継ぎ、盛唐の佳作を開いたと言っても過言ではない。彼は鴎陽詢、褚遂良、薛稷號とともに、初唐の四大家と稱された。虞世南は冷靜で寡欲で、性質は剛直で気概を尊ぶ。彼の人柄と博識を見込んである太宗に非常に重用されている。
虞世南は字を書くのが紙や筆の良さ悪さによるものだと考えなかったが、その座りと立ちの姿勢を非常に重視していた。彼の理念では、姿勢そのものがきちんとしていて、腕の運力が巧みに支配できる以上、たとえどんなに粗末な紙や毛さえない筆であっても、手當たり次第持って來ると、必ず自由に揮毫でき、またそこに屬する新奇な意味もおのずから出てくるという。
伝説によると、唐太宗がかつて、虞世南を呼んで來て、「近頃、朕がこの大明宮の巨幅の屏風をぱっと一新に飾り直させた。あなたは才気に富み、思惟が敏捷であろう。はやく105名の烈女の小伝を楷書で屏風の上に書いてくれ。」と仰せられ、稿本を出してこれらの烈女の事柄を次々と彼に紹介した。それで、皇帝の意図が分かり、大明宮に來た虞世南は、驚くべき記憶のみによって書き始めた。揮毫しながらもまた構想を進めている。顔と屏風の平行を保証するため、彼は腰掛を敷いて上がったり、それを捨ててしゃがんだりしていたが、筆法は自然にして熟達で、姿態は穏健であった。ただ一日と一晩の時間で全部できあがった。屏風を書き終わった虞世南は、くたびれた気なく、そして、細かく校閲した結果、一字の間違いもなくて、一箇所も書き直すところもなかったとのことであった。
その作品は元代において、すでに珍しくなった。今見られるのは後世の臨本のほか、伝えられてきた書跡や石刻は、楷書の「孔子廟堂碑」、「破邪論」や、行書の「汝南公主墓誌銘」、「摹蘭亭序」などが挙げられる。「唐人摹蘭亭序三種」の中の一つは虞世南の墨跡と言い伝えられる。
朱舜水
清代の浙東學派は朱舜水をその鼻祖と見なされる。著書の『明夷待訪録』は世界中において一番最初の民主啓蒙主義についての大著と思われている。康有為、梁啓超の変法や辛亥革命などといった重大な進歩的政治変革は、直接彼によって大きく影響を受けていないのはないと言える。朱舜水は抗清に敗れ、日本へ移住後、日本における発展と変革に與える影響は、どんなに高い評価を下しても行き過ぎることはない。日本では、水戸藩主の徳川光圀を始め、國を挙げて褒め稱えるのである。それは今日までに続いている。
王陽明
明の時代に、餘姚に王陽明という名人が出られた。彼は哲學家、教育者であるほかに、戦爭や軍略に長じている大將でもある。餘姚の「四碑亭」に彼を記念するための碑亭が殘されている。碑文には「明代先賢王陽明の故郷」と刻んである。「曾將大學垂名教、尚有高樓掲瑞雲」という対聯、「真三不朽」という橫額がある。
王守仁(1472~1529)、字は安伯、號は陽明という。世の中に「陽明先生」と呼ばれ、餘姚の出身である。父の王華は、明の成化17年(1481年)に科挙を首席の狀元で、合格した。王守仁は父とともに紹興に移住し、また北京へも行ったことがある。
王守仁は中國の宋と明の時代において、主観唯心主義の各説の長所を集めた者である。彼は陸九淵の學説を継承し発展させ、程朱學派に対する思弁を起こした。彼は「善無く悪無きは是れ心の體なり、善有り悪有るは是れ意の動なり、善を知り悪を知るは是れ良知なり、善を為し悪を去るは是れ格物なり」と唱え、これを學問を研究する際の宗旨としていた。彼はまた「萬事萬物の理は、吾心の外ならんや」、「心明、即ち天理」と斷言するように、「心外物なく、心外事なく、心外理なし」という論説を明らかにした。
學問することにおいては、「學は心に得るのを貴ぶ」、つまり學んであることを心で會得する、これが大事なことであると説いた。「心というと、植物に例えて言うとその根で、學ぶことは、その植物を培擁したり、灌漑したり、なお育成したりすることのように、すべてその根、つまり心に働いているのである。」と論じた。それで、このように、振りかえして內心まで求めるという修養の方法を持ち、所謂「萬物一體」の境界に達しようと提唱していた。彼の「知行合一」と「知行並進」の説は程頤といった宋代儒學者の出した「知」は先にあって「行」が後になるという「知先行後」の従來の教え、また「知」と「行」とのつながりを割れた言い方などへの反措定である。
王守仁は児童の教育に力を入れて、鞭で打ち縄で縛り、まるで囚人のように児童を扱うのを批判した後で、「何よりも自発的なやる気を引き出すことが肝心で、內心より喜びを出させよう」、それで、「自然的に成長することにともない、理想の狀態に近づくことも期待できる」と唱えた。
王守仁の學説は「反伝統」という姿で現れた。明代中期以降、「陽明學派」が形成されてきたが、その影響力は極めて大きい。彼は至るところにおいて門徒を受け入れた。死後、「王學」はいくつかの流派に分かれてきたが、その正統は同じである。しかも、それらの流派はどれにおいても長所が挙げられる。彼の哲學思想は遙かに海外まで伝播され、そのうち、特に日本の學術界に大きな影響を與えた。
黃宗羲
寧波市餘姚の龍泉山の中腹に四つの石碑亭があり、それは四位の先賢のために建造した。中の一つの碑の碑文に「明遺獻黃梨洲故裏」と刻んだ。そこの対聯には、「孝子忠臣、千秋列東廡に祀典し」、「儒林道學史家特南雷に筆著し」と書いてあり、橫額は「名邦遺獻」である。これは明代末期の黃宗羲のために立てたのである。
黃宗羲(1610~1695)は字は太沖、號は南雷という。學者からは梨洲先生と稱される。寧波市餘姚明偉郷黃竹浦の出身である。父の黃尊素は「東林」の名士として知られ、魏忠賢の弾圧を受け獄死した。黃宗羲は父の遺命に従い劉宗周に師事していた。19 歳になって、都へ無罪?冤罪を訴訟に赴き、そこで鉄錐で仇敵を痛め殺した。彼は「復社」の成員を指導して、宦官や権力者に反対する抵抗を引き継き、何度も殘害されたことがある。清が南下して侵入してくると、彼は義勇兵を募集し「世忠営」を結成して、武裝抵抗を行い、魯王から「左副都禦史」に任じられた。明が滅亡した後に故郷に隠棲して學術的著述に沒頭、清の朝廷よりの徴用をしばしば辭した。孫奇逢、李顒とともに「三大儒」と稱されている。その學問は極めて該博で、天文學?算術?音楽?律令?経典?史學?道の釈明などの各分野に対する研究において至らないところはなかった。史學上の成就はことに大きい。著した『明夷待訪録』は、浙江省東部の史學における研究の気風を開いた。哲學の上で、朱子儒學の「理は気の先あり」という説を反対し、「理」は実體でなく、「気」の中の條理と秩序という存在であると論じた。一方、「気質人心は渾然と一體をなし、公共的な物である」と指摘し、また「天地に充満しているのは心のみ」と説き、有神論に傾いていた。彼は、「致良知」の「致」を「行い」の「行」と一同にしておき、「測度、想像であるけで物事を論じる空疎な學問」には否定的で、「知識の上で身代を成り立つ、良知とする。」と提唱した。それに、君主の「天下の産業を私有にして占める」という罪狀をあばき出し、「天下の最大の障害は君主であろう」という結論を明らかにした。そして、「天下は治世であるか亂世であるかは、一氏の興亡と関係なく、萬民の憂いや喜びそのものにつながっている。」と唱えた。彼は土地、賦稅製度を改革するのを主張し、「農業は本なり、工業と商業は末なり」という伝統を反対し、「工業と商業も本なる」と強調してきた。彼のこのような政治歴史観は當時においてかなり進歩的であった。文學の麵において、現実を映した詩文のほうがいい、本心に即しなければならない。著作を見ていくと、『宋元學案』、『明儒學案』、『明夷待訪録』、『南雷文集』などが數えられる。
黃宗羲は1668年に、寧波へ萬泰、陳同亮、陳夔獻といった寧波の學者の誘いを受けて來て、白雲荘の「証人書院」で學術の講演を進めた。この間に、彼はまた範欽の曾孫である範友仲に助けてもらい、範氏の「鎖閣」を必ず厳格に執行するという族規を突き破り、「天一閣」で読書した初めての親族以外の人であった。蔵書を全部読み通したばかりでなく、黃宗羲は『天一閣書目』を編纂して、『天一閣蔵書記』という本も書きあがった。