寧波市は歴史と文化の名高い都市としてその歴史が悠久で、優れた人物が集まり、舊跡名勝も多い。これらの古跡は寧波の最も良い証拠で、また國內外の観光客にとって寧波は名勝を探るのに良い場所である。
寧波は山を背にし、海に麵し、気候が溫和で、景色が美しくて、その風景が山、水、寺、園を持ち、観賞できる自然の景観と人文の景観で、全市の至る所に分布している。ここ數年來、大規模な開発を通じて、至る所の名所舊跡は交通が便利になって、そのサービスの施設も最上で、伝統工芸品もたいへん豊かになった。
寧波は自然と人文的資源に富んでいて、山河がそれぞれの姿で美しく現れ、人をうっとりとさせるほどである。蔣氏故郷の渓口の雪竇山は國家級の名勝で、穀が奧深くて滝があり、岩壁が切り立つように聳えている。東銭湖は「西湖の風韻、太湖の気迫」と稱えられている。古代の水利工程它山堰ダムは山紫水明で、阻海蓄河の働きを果たしている。鬆蘭山には金色の砂浜があり、海天の色が一緒に青く映されている。天明山の南渓溫泉は透き通るようにきらきらと輝いている。鎮海海防遺址は雄大で壯観である。越窯遺址の青磁器文明は有名である。天童寺は仏教の五大聖地の二番目と數えられる。阿育王寺に釈迦牟尼の本當の舎利が珍蔵されている。保國寺の本堂は江南では、最古の木造建築として殘されている。
天一閣
「寧波に來ても、天一閣に行かなければ、寧波を見學したことがないことに等しい」と言われている。天一閣は海曙區の月湖畔に位置して、中國に現存する最古の民間蔵書樓だけでなく、アジアでも現存している最古の図書館で、世界で最も古い三大私家図書館の一つでもある。1982 年に國務院より全國重點文物保護財と指定された。
天一閣は明代の兵部右侍郎範欽により、嘉靖四十年と四十五年(1561~1566年)の間に建てられた。範欽(1506~1585)は、字が尭卿、號が東明で、寧波鄞県の人で、明嘉靖十年科挙で進士に受かった。範欽は読書がとても好きで、中國の各地を回わり、心をこめて各種の書籍を収集していた。古書の中に書かれている「天一は水を生み、地六は之を成す」という言葉を利用して、「水を以って火を克す」と思い、蔵書樓を「天一閣」と名付けた。それに、天一閣の前方に防水用の貯水池を掘っておき、池のそこに、月湖に繋いで、一年中水が幹上がらなくて、いざという時に近所の水を汲んで緊急措置を取ることができる。蔵書樓の上層部は仕切りのない大間で、「天一は水を生む」に合わせ、下層部は六つの部屋からなり、「地六は之を成す」に合わせるためである。
天一閣に古書は30數萬巻蔵書されていて、その中に貴重な善本が8萬巻で、「南國書城」という美稱がある。蔵書のほとんどは明代の刻本と寫本で、海外絶版も少なくない。その中の明代地方誌と進士登科録が明代の歴史を研究するのに、貴重な文獻である。範欽の蔵書は17000巻しか殘っていないが、その中の明代地方誌と進士登科録は、天一閣所蔵の最も豊富で顕著な特色を成している。現存している地方誌は271巻あり、その中の65%はすでに絶版となり、370 巻の進士登科録の 90%はこの天一閣にしか保存されていない孤本となっている。これらの書籍は、中國伝統文化を研究するのに、何より寶物である。
康煕四年、範欽の曾孫である範光文は天一閣の前にある池のそばに築山を建て、小橋もあずまやも増設し、周りに竹や木などを植え、石で「九獅一象の山」を作り、麵積は小さいが、かなり精巧で、江南園林の特色をかなり備えている。その後、各地『四庫全書』を保存している文源、文淵、文津、文溯、文匯、文瀾、文宗などの七閣はすべて天一閣のデザインをまねて建築したので、天一閣は全國に名を馳せる。
1935 年、もとは尊経閣にあった歴代の石碑が天一閣の裏庭へ移されて、そこは「明州の碑林」と命名された。宋、元、明、清の石碑が80餘點あり、その中で3つの「南宋日本滯在華僑の碑」が最も貴重で、それは今まで発見した南宋時代における明州港の最も早い文物で、國內に現存している最も早い華僑の文物である。
1994 年、寧波市は寧波博物館と天一閣文物保護所を合併して、天一閣博物館を創立した。天一閣博物館が目下もう蔵書文化、陳列展覧、庭園レジャーという三つの機能を持ち、悠久なる文化歴史を持つ名都市である寧波市の重要な標識の一つになって、寧波の歴史文化都市の姿を展示する窓口である。
天一閣の主な名所には東明草堂、寶書樓、尊経閣や碑林、千晉斎、秦氏支祠などがある。
白雲莊
寧波市の西部にある管江のほとりに位置して、明代末期、清代初期の有名な思想家、文學者、歴史學者である黃宗羲が講義をするところで、著名な歴史學者である全祖望に「甬上証人書院」と名付けられた。黃宗羲は字が太沖で、梨州先生と呼ばれていて、餘姚市黃竹浦の人である。清代初期の浙東學派の代表人物として顧炎武、王夫之と一緒に明代末期、清代初期の「三大思想家」と稱されている。彼は甬上証人書院を通じて浙東學派の各分野の傑出した人物を育成した。白雲莊はもとは、明代末期の戸部主事である萬泰の宅であったが、その後彼の息子の萬期選が『白雲集』という文集を著作して、死んだ後で、ここに埋葬したため、白雲莊と名付けられた。白雲莊は黃宗羲が講義をしていたところとして、かつて寧波の優れた文人が集まり、一時期大いに流行っていた。
白雲莊の主な建物は東向きで、すべてレンガと木材で建てられた平屋で、古風で優雅な風格を持っている場所となっている。南側は萬氏の舊居で、「浙東學派」の主な人物の萬斯同がかつてここに居住したことがある。北西側は萬邦孚と萬斯選のお墓である。萬邦孚は萬泰の父親で、左軍都督府僉事を擔當していた。萬斯選は萬泰の五男で、同輩ではリーダー役で、黃宗羲は自ら彼に墓誌銘を書いた。
白雲莊は浙東の歴史學のシンボルとして、國內外に大きい影響を與えて、省クラスの重要文化保護財である。莊の中に「甬上証人書院」の以前の様子を維持していて、黃宗羲の生涯の略歴も陳列されている。
七塔禪寺
七塔禪寺は寧波市百丈路の中段にあり、寺院の前に七本の寶塔が建てられているため、その名聲を得て、「七塔報恩禪寺」と呼ばれていて、名刹の普陀、天童、阿育王寺と一緒に四明四大寺院と稱されている。國務院により、中國漢民族地域の仏教重點文化財と指定され、寧波市仏教協會もその中に設けられている。
歴史が悠久たる七塔寺は、今まですでに 1100 年以上の歴史を持ち、唐の大中十二年(西暦858年)に建てられ、「東津禪院」と呼ばれていて、その後名を「棲心寺」と「崇壽寺に変わった。明の洪武二十年(1387年)に、海上で不安定なため、朱元璋の部下の信國公湯和が、普陀山の僧と観音菩薩を寺の中まで迎えて、そして、観音聖像を大雄寶殿に移動して祭って、それを「補陀寺」と改名し、俗稱が「南海普陀」である。寺院の前にある七本の寶塔は、清の康熙二十一年(1682 年)に建てられ、七尊の仏の意を表している。現世仏は釈迦牟尼仏であるが、過去仏には、毘婆屍仏(びばしぶつ)、屍棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、倶留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)がある。七塔寺という名前はそれで名付けられた。
寺の中にたくさんの貴重な文化財が保存されている。最も歴史の古いのは唐の鹹通十四年(西暦873年)に皇帝の敕令により建築された鏡心禪師の遺骨舎利塔である。この塔は台座、塔體、てっぺんの3部分からなっている。台座は四方形で、塔體は丸い太鼓の形を呈していて、造型は厳粛で、スタイルが優美で、裝飾が精致である。特にてっぺんの上の彫刻は細かく刻まれて、とても珍しい。その他、南宋嘉定十一年(l2l8 年)と慶元の年間に鋳造された銅の鐘が二つあり、明の木槎が一基、清の雍正十三年に刻まれた『蔵経』が一冊ある。清の嘉慶三年(l798 年)に作られた石刻の五百羅漢が大雄寶殿の左右と後ろの壁に嵌められている。彫刻した人物は堂々として、生き生きしている。精巧に彫り刻んで、スタイルもなめらかで、主體の人物を引き立てる風景はほどよくて、清の彫刻の中で逸品と言ってもいいであろう。
七塔寺の主な建築は天王殿、大雄寶殿、三聖殿、方丈殿、蔵経樓、慈蔭堂、玉仏閣、鐘鼓樓、念仏堂、東?西廂房などで、殿堂と樓閣の配置が合理的で、彫刻が精緻で美しくて、非常に壯観なものである。
城隍廟
市の中心にある県學街の東に位置し、全稱は「寧波府の城隍廟」と言い、「郡廟」とも言う。五代後梁の貞明二年(西暦916 年)に建てられ、場所は「子城の南西の 50 歩のところ」で、すなわち今の鼓樓の南西のほうである。宋の嘉定九年(西暦1216年)に、程覃は朝廷に奏請らして、廟に「霊佑」の額を賜られた。參拝客が多いため、何度も火災に壊された。明の洪武四年(西暦 1371 年)にもう一回火に燃やされた時、郡府の張琪は城隍廟を「握蘭坊帝師殿の舊跡」に移り、すなわち県學街にある今の舊城隍廟の所に建て直された。當時の規模は大きくなかった。正統二年(西暦1437年)に知府の鄭珞は殿宇廊廡を修築して、正殿の南に軒柱を増加して、もっと立派に建て直された。清の光緒十年(西暦1884年)に城隍廟はまた再建され、今度の規模は以前の何回よりも大きく、頭門、次門、舞台、大殿と後殿があった。次門から主な建築までの両側に廂樓があり、舞台の天井はみんな金箔した鬥拱と透かした彫り板を用いて、螺旋狀に回り上がり、極めて精巧である。廟門の前の左右の拱門が廟と緊密に繋がり、真正麵には照壁があり、そのあと、棋の竿が立てられている。廟の前に三組のうちわの形の門が並び、二つの石獅子もある。飛簷が聳え立ち、精細に彫刻され、全體の建築群は雄大で古風があり、立派で堂々としている。