犴の舞
犴の舞は古代の犴から起源する。古代の犴は竜と同じく、長江流域の先住民の原始トーテムである。それゆえ、「中國南方の竜」と呼ばれている。
餘姚泗門鎮東蒲村の犴の舞は我が國民間の舞踏の珍品で、秦代以前にすでに出現した。紀元前201年、秦の始皇帝は第五回の南巡りの時、九嶷山を過ぎて、長江に沿って、東方に行って、會稽に著いて、馬渚に至り、「渚山に駐屯し、淵に馬を飲ませる」(「舊経」)當地東夷の民衆は「渚山に犴の舞を出演する」(馬渚鎮文化站の調査資料による)。
犴の舞の形式と流伝は不斷の演化、豊富と発展のお陰である。その間、王朝も絶えなく交替し、戦亂も絶えずに発生していたが、越の犴の舞の信仰習俗と犴の舞の形成、発展は終始中斷したことがない。
現在舞踏に使われている犴は全長が約15メートルある。頭、體、尾に分けて七節ある。全身は金色の布でしばられ、頭は赤い布で飾られ、犬と狐の形に似るように描かれ、口は上と下の二つの顎に分け、その中に赤い舌が見える。顎の上に大きい鼻と黒い目があり、目玉が大きくて生き生きとしている。頭の左右に角と大きい耳が一つずつある。顎の下は赤いひげでいっぱいある。犴には鱗がない。背中のひげが両辺に分ける。尾が比較的に短く、上と下の二つに分ける。犴は民間の布竜に似ているが、細かく見ればその相違が分かる。
犴の舞の出演に自分の獨特な陣立てと動作がある。舞い始まる前、犴の頭が中央にあり、體が周囲に寄り添う。犴の舞の隊列は一枚の「令」字三角形旗を先頭とする。一枚の特大の金色の「犴」字軍旗がぴったり後につく。後は五枚の五色の三角形の旗である。その旗の竿が長い。五枚の旗は上に「金、木、水、火、土」という字が一つずつ刺繍され、「五行」を代表する。最後に犴の舞の隊列が犴の真珠の引率で登場する。
出演の中で、「五行」旗は「令」號旗の指揮に従って梅花粧形を並べ上げる。犴の舞の隊列は犴の真珠を持っている人の引率で出演する。犴の舞の陣立てに拉場、食珠、転身、三跳、進粧、串陣、甩尾と収場等が八つある。
下駄のルーツ
日本?日中友好協會の池上正治氏は江蘇省常熟市を経由した時、そこの商店で和式下駄を売っているのに怪しく思った。実は、和式下駄のルーツは中國にある。それに一番古い下駄は寧波市の慈城鎮に発見された。
寧波人は俗に下駄を木製スリッパと稱する。20世紀の60年代前後、木製スリッパは民間でしばらく流行っていた。「木製スリッパ、木製スリッパ、3年間も履ける」という話がある。現在そのような木製スリッパは姿を消したようであるが、日本では千年前に中國から伝わっていった下駄はまだ履いている。そのうえ、盛大な行事に和服に下駄を履くのは日本民族の文化特色になった。
1990 年の春、中國考古學研究所の専門家は日本で講義をする時浙江省の寧波市に五千年以前の下駄が発見されたという情報を公表して、即時センセーションを巻き起こした。中國へそのルーツを探そうと唱えた人もいた。
中國の一番古い下駄は1988年寧波市慈城鎮の慈湖新石器時代遺跡に発掘され、合計二點ある。下駄の長さは21センチ、頭部は幅が約8.4センチ、根部は幅が7.4センチある。その中の一點には五つの穴があり、もう一點には六つの穴がある。穴と穴との間がへこんでいて摩耗を免れる効用がある。この二點の下駄は日本で現在使用されている雙帯式下駄と人字帯下駄に相當し、今は寧波服裝博物館に展示されている。
『太平禦覧』に孔子が下駄を履いて各國を周遊し、蔡國に一枚の下駄を盜まれたという物語がある。『文獻通考?物異』に前漢元康の5年(紀元前61年)「武器庫が失火して、孔子の下駄と高祖の剣がなくなった」という記載がある。それに、『漢書?愛盎伝』に呉王が五百人の騎兵で愛盎を追って、愛盎が下駄を履いて一気に70裏走ったと記載している。漢代の史遊の「急就篇」にもそのような記載がある。唐?顔師古は「下駄は、木材で作り、歯が二つあるから滑りを止めることができる」と、注をつけた。當時下駄がすでに二歯で滑りとめるように改良されたと分かる。北朝「楽府」の詩の中には更に具體的な描寫がある。「黃桑拓屐蒲子履,中央有係二頭係」は金色の桑木で作成した下駄に帯があるということを指す。「南史」には驍騎將軍虞玩が一対の下駄を三十年間も履いたが著替えることを惜しむため、皇帝が彼に下駄を賜ったと記載している。
実は、中國は2500年前にすでに下駄に関する記載があった。漢と魏の三國時代に下駄はもう広く伝わっていた。三國時代の花嫁は彩色上絵下駄に五色リポンをつけることを流行とした。湖北鄂岡に発掘された一対の漢代彩色上絵下駄は長さが26.7センチ、寛が9.4センチ、現代中國の広州式の木製スリッパと日本の彩色上絵下駄に似ている。
南朝の謝霊運が発明した「謝公下駄」は「山を登るなら前の歯を取り除き、下りるなら後の歯を取り除く」ことができる。唐代の著名な詩人李白は「腳著謝公屐、身登青雲梯」(足に謝霊運の下駄を履き、青雲に聳える高山を登る)という名句を書いた。李白の「越女詩」に「屐上足如霜、不著鴉頭襪」という句がある。その「鴉頭襪」は浙江省東部女子が履く人字帯下駄と女子用の靴下である。それは唐代に日本に伝わった下駄になったのであろう。
宋代になると、下駄は士大夫たちに好まれる攜帯式レジャーの靴になった。蘇東坡は外出の時に雨に降られたことがあり、「被り笠と下駄を借りて帰った」という。陸遊の詩に「臥聴深泥淺屐聲」の句がある。それに、南宋の著名な畫家馬遠畫の絵「雪履観梅図」が世に殘っている。
しかし、宋代以後、下駄を履くのは士大夫の恥になったようである。それゆえ、下駄は中下階級にしか流行っていなかった。けれども、蒸し暑い福建省と広東省の沿海地域で「貴賎に関わりなく、男女も同じく下駄を履く。女子の下駄に彩色の絵を描き、時に竜の頭を加える。一日中部屋の中にごつごつと歩いている」という。
その「ごつごつ」の言い方は絶妙で、下駄の音と形を生き生きにさせた。
麻雀の由來
博打の一種として、麻雀は中國にであるけでなく、日本、韓國、アメリカにも相當普及されている。しかし、麻雀は一體いつ形成され、誰に創造されたのか。
中國式カルタは長い歴史を持っている。『列子?説符』に「樓上博者、射明(王へんに京)張上」という説がある。明(王へんに京)というのは玉質の中國式カルタである。『史記?範睢蔡沢列伝』に「博者欲大投」と記載して弶いる。それに対して、南朝の裴駟は『集解』に「投、(王へんに京)也」という注をつけた。それに、近年考古學発見した実物から実証して、このような秦漢時代に「投(王へんに京)」に用いたサイコロが十八麵體の小球であると分かった。南北朝以降、やっと現在我々が見た六麵體になった。唐代に至って、サイコロの博打が風潮になった。言わなくても明らかで、2個のサイコロが組み合わせれば「牌九」になる。例えば、一點に一點を加えて地牌になり、五點に六點を加えて「釜の端」になる。
「牌九」は北宋に出現した。清代の陳元竜の「諸事音考」を引用した「格致鏡原」によると、「宋代の宣和二年、ある大臣が32扇のカルタを進呈した。計二百二十七點で、星の分布によって配列する」という。そのため、「牌九」は最初「宣和カルタ」と稱された。現在の麻雀の形式は「牌九」を參考にして造られたものである。
麻雀の基礎的な文様は明代のトランプ「馬吊」からできた。頠炎武の「日知録」に「萬歴の末、天下が太平で、士大夫は暇ですることがないから、賭博をする者がいる。天啓に至って、馬吊が流行し始める」と言った。同じ時代の寧波文士李鄴の「馬吊の話」が上述の観點を支持した。それに、注意すべきのは馬吊の色と柄に「萬字」、「索子」と「文銭」の三種があり、麻雀の色と柄に似ているが、そのやり方は違いということである。
現在調べられる麻雀に関する早期資料は主に中華民國の徐珂の「清稗類鈔」にある。「麻雀は馬吊の発音の転化したものである。呉人は鳥類を「刁」に読む」。ほかに、麻雀の伝播に関して注意すべき史料はもう一つある。杜亜泉の『博史』は「麻雀は最初福建省と広東省の沿海地區で流行っていて、清代の光緖初年に寧波を経由して天津と上海に伝わった」という。換言すれば、麻雀は清代の末に寧波を経由して全國に普及したという。
寧波が麻雀の形成における役割は伝播することにとどまらなく、創造することである。清代の鹹豊前後、寧波に陳政鑰という人がいて、字は魚門で、彼の舊居は城內の蔣祠巷にある。彼は駐寧波イギリス領事館の領事夏復禮と親しくつきあっていた。後で江北區外國人の留居地に引っ越し、イギリスの外交官に麻雀を教えた。このことについて、すでにイギリス人の回想録に記載が見つかった。陳氏の子孫は「麻雀は私の先祖が発明したのである」と直言して、蔣祠巷の住民は依然として「陳魚門殿が麻雀を発明した」ということを知っている。麻雀は寧波の方言である。陳魚門が麻雀のやり方に一対の「雀」を創り出したから、厳格に言うと、中國語の「麻將」は「麻雀」と書くべきである。現在でも、日本人はそれを「麻雀」と書いて、「マージャン」と読む。それに動物の雀は日本語で「スズメ」と読む。そのうえ、日本語の中の麻雀に関する術語は全部寧波方言の発音で読んでいる。陳魚門はまた「杠」、「喫」とサイコロで位置を測る方法を創り出した。要するに、麻雀は寧波の陳魚門が馬吊の色と柄、そして牌九の形式よって新たに創り出した博打で、寧波から各地に伝わっていったのである。その時間はおよそ清代の同治と光緖の年代であろう。