「寧波邦」に対する研究によって、大きな成功を収めた「寧波邦」の殆どが買弁(コンプラドーる)に攜わったことがあるという。これは「寧波邦」を勝利に導く重要な原因の一つであろう。買弁を通して初めて、「寧波邦」は世界と緊密に結びつき、原始資本の蓄積と商売経験を積み重ねることができるようになった。
もともと「買弁」ということが非常に悪名の高い反動的な仕事であるが、買弁する人たちを分けて考えたほうがいいと思われる。なぜなら、中國の民族資産階級の多數が買弁から転化してきたので、「寧波邦」もこの中の一族である。
現代の言葉で買弁を言うと代理人のことである。高級サラリーマンのような役である。ところが、「寧波邦」の文盲たちがどうやって買弁になったのであろうか。今現在、例え大學生や院生であるといっても必ずしも海外大手企業のサラリーマンになるわけがないのであろう。文盲や半文盲なんて買弁になるものか。真っ先に目立つのはお互いのコミュニケーションの問題であろう。浙江省東部の農村を出て、寧波にバイトに行く人たちがどうやって外國人と交流したのか。泰昌祥通関行と泰昌祥汽船會社を創立した顧宗瑞氏に殘されたテープによると、「われわれが中國の本を少しだけ読んだが、外國の本を読んだことが全然ない。ただ少しのピジン語を身に付けた。」と顧宗瑞氏がこう言った。
この一言からみると、「寧波邦」はピジン語をツールとして、外國人と商売したり、付き合ったりして家を富ますことが明らかになった。
ピジン語とは
『ピジン』が約100年前に無くなった小川の名前である。今、上海の黃浦江トンネルはつまり元のピジンの川道に沿って造った。1916年にその小川が埋められて愛多亜路、つまり今の延安路になった。
その次、ピジンが両地區(舊上海公共租界とフランス租界)の境をなす小川である。つまり東洋と西洋の境をなす小川である。川のこちらは「華界」、岸の向こう側は「夷場」と呼ばれるから、ピジンを租界や洋場に見做された。當時の上海が租界と契約した多くの協定書さえ『ピジン』で名付けられ、『ピジン○○規約』と呼ばれた。すると、ピジンはだんだん小川の名前から中國の植民地半植民地史へ、中國と西洋の交流史へ踏み入った。
現代では、ピジンという川道と租界が全て消えてしまったが、ピジン語が殘ってきた。それで、ピジンは最初の真の川から東西洋の境に変わったうえで言語の川にもなったといっても言い過ぎではなかろう。ここで言ったピジンは一つの語種として扱って、ピジン語といわれるが、日常會話では『ピジン』という。
ご存知のように、中國の明?清時代には長い間鎖國政策が行われてきた。外國人はもちろん、中國人すら海に出ることを禁止され、外國人と付き合うことが許されなかった。しかし、こんな人為的な鎖國がきっと敗れるに決まっている。中國の市場は資本主義國家に入ったヨーロッパ諸國にとっくに狙われていた。一方、外國の先進的な技術と商品も必ず中國人の目を引き付けるに違いない。例えば、ヨーロッパの布が地元の布より快適であるし安価であった。ランプも中國のより明るいし便利である。朝廷が外國と貿易することを禁止するなら、國民はこっそりと外國と通商をするようになった。昔、寧波と舟山の間にある雙嶼港が非常に賑やかな密輸基地である。
言葉が人と人との間に付き合うに欠かないツールである。ちょっと考えてみれば、ヨーロッパの商船と商人が突然に中國に飛び込んで、彼らは全く中國語が分からなくて、中國の人々も外國人の言葉を知らなかった。では、彼らがどうやって交流していたのか。
すると、機運に応じてスペシャルな言葉が現れた。「両點の間に直線が一番短い」と言うように、交流しようとする人の間にもそうであろう。違う母國語を扱う人々が集まると、交流するべく最も気軽で素早い方法は相手の理解できる単語を、相手に理解される文法を使って、基本的な意味を分からせるうえで、交流を図ることができるようになる。こんな方法に基づいて、ある混合語が作り出された。以前の研究によると、「混合語」という現象はただ中國人とヨーロッパ人との間のみ現れたものではなく、二種あるいは多種の言語接觸の時に必ず生まれる普遍的な現象であると考えられる。貿易のために、ロシアとノルウェー、日本とヨーロッパの間にも「混合語」をツールとして交流し合ったことがある。
ヨーロッパの人々はこのような混合語を『Pidgin English』或いは『Chinese Pigeon English』と名付けた。
中國人は音訳法で「Pidgin」を「皮軟」或いは「別琴」に訳した。これは所謂「皮軟語」「別琴英語」の由來である。清代晩期に常州人の楊勛は『別琴竹枝詞並序』に「別琴」の二字は中國人が作った言葉で、貿易、事柄との意味であるが、イギリス人はそれをもって、杜撰英語の別名として、極めて下品な言葉であると思われたと言う。
また、pidginとpigeon(鳩)の発音が同じなので、「鳩英語」とも呼ばれた。
中國が西洋と貿易を行う歴史からみると、マカオ?ポルトガル語(マカオの商人に地元の方言で改造されたポルトガル語)をはじめ、ピジン語がだんだん出てきたことが分かった。
ピジン語の起源と発展に従って、ピジン語の移り変わりが中國の海外貿易歴史の変遷と関係はないとは言えない。ポルトガルがヨーロッパ諸國の中で最初に中國と貿易を行った國で、特に1557年にマカオを植民地として占領されてから18世紀まで他のヨーロッパ諸國より優越な地位に占拠したことになった。すると、『マカオ?ポルトガル語』が時運に応じて現れた。しかし、1637年6月イギリスの海軍大尉ジョン?ウェッデルが4隻の武裝商船を統率して珠江に侵入することをきっかけにして、イギリスがポルトガルを乗り越え、だんだんポルトガルの貿易地位を取って代わった。清朝政府は乾隆22年(1757年)に広州以外の港を封鎖し、特別の許可を與えられた「十三行」という商売組織に対外貿易を任せたことになっている。所謂、「一口通商時代」(一つの港で通商する時代)に足を踏み入れた。一口通商時代の到來に従って、中國の貿易センターになった広州では、広州弁によって創られた『広州英語』が生まれた。その後、鴉片戦爭で中國の鎖國政策が一口通商の代わりに五口通商(五つの港で通商する)が歴史にデビューした。この件のお陰で、上海が広州の地位を取って代わり、急速に成長して中國の貿易センターになったわけである。一連の事件に伴って、現代のビジネスグループの一つ~「寧波邦」が登場した。そこで、新たな言葉として現れた『ピジン語』が中國に百年ぐらい影響を與えた。「マカオ?ポルトガル語」が「広州英語」へ、「広州英語」が「ピジン語」への移り替わりが、まさに中國人の英語を勉強する順路図ではないかと考えられる。それに、この順路図を中國の近代貿易史と見做すこともできる。つまり、「マカオ時代」「一口通商時代」、「五口通商時代」の変遷である。
ピジン語という言葉に台灣の李敖は、「Pigeon-English」は「Pidgin-English」とも言い、ピジン語とも言える。ピジンは上海のある地域の地名で、最初にイギリス人と商売する中國人は英語が下手糞なので、意味や文法の通じない中國語的英語を作り出す言葉であると定義した。