基調講演を仰せつかりましたが、私は研究者ではありませんので、適任かどうか疑問ではありますが、知事という立場で北東アジア経済圏の推進にどう取り組んできたか、またどう考えてきたかなどをお話します。
私が日本銀行の新潟支店長として赴任してきた1989年頃は、ペレストロイカによるソ連の開放により、それまで閉ざされていた日本海が戦後45年ぶりに交流の海に変わり始めた時でした。軍港として立ち入り禁止だったウラジオストックとの間に新潟から航空路を開設しようという動きが一挙に盛り上がりました。市內ではロシア物産見本市などが開かれ、物珍しさもあり多くの市民が押し寄せていました。
地政學上の有利さもあって、新潟では「環日本海経済交流圏」構想の議論が進むとともに、交流拠點としての新潟の発展に期待が膨らんでいきました。
1992年に私は新潟県知事に就任しましたが、選挙公約の重要政策のひとつが「日本海·関越ベルト地帯振興構想」というものでした。これは東京からロシア·中國東北部に向かう関越軸と日本海軸の交差する新潟を環日本海圏の交流拠點として、発展させようという構想です。その構想の中心は人と物の交流促進と、それを支える輸送等交通インフラの整備推進でした。
しかし、この北東アジアの交流圏形成に攜わって、いくつかのことに気がつきました。それは、①世界の他の経済圏と異なり、國の一部で構成されている(ロシア極東、中國東北3省等)ため、國家間の協力體製が得にくいこと、②また、経済レベルも文化も全く異なること,③しかも 各國が保有している資源が異なるため,これを有機的に組み合わせる難しさがある(日本·韓國=資本と技術、中國·ロシア·北朝鮮=資源と労働力)こと、④更には、戦後45年が経過しているが、この地域には戦後処理問題がまだ存在していること、などでした。そこで、経済圏構想推進に當たっては「この地域の特性を考慮し、予防的平和と互恵の精神を大切にしよう」と呼びかけました。
交流圏構想の推進の事務局を擔ったのは、県が主體となって設立した「環日本海経済研究所(通稱エリナ)というシンクタンクでした。構想推進は新潟県が主催し毎年開催する「北東アジア経済會議」がその中心的活動の場でした。同様の會議は他県でもいくつか開催されましたが、議論の內容、集まるメンバー等みてもこの會議が最大かつリーダー的會議だったと自負しています。それには、この地域の國內唯一の研究機関としてのエリナの研究功績等があったほか、道半ばで亡くなられたけれど、新潟には佐野藤三郎(亀田郷土地開発組合理事長)、藤間丈夫(日本海研究會)をはじめとする先達がいて、古くから人脈による信頼関係を構築していたからでもあったのです。このことは、いつまでも忘れてはならないと思っています。特に佐野は黒龍江省·三光平原の開発では政府間の國交回復に先駆けて活動していた人物です。
こうした交流圏構想の高まり、現実の往來の活発化もあって1990年代には中國と新潟を結ぶ航路が増加、新潟と上海·西安およびハルピンを結ぶ2つの航空路も開設されました。しかし、経済圏形成につながるような交流は期待したほどには進みませんでした。ロシアの市場経済へ移行の混亂、中國の急速な発展と投資リスクなど、現実の経済交流には種々の課題があったからです。
新潟での航路·航空路の開発、物流量の増加、朱鷺の繁殖成功、ロシア·ザルビノ港と中ロ國境輸送手段の開発診斷など、それなりの成果も挙がっていましたが、中國、ロシア、モンゴルは、日本、韓國等に対し「これだけの投資メリットがある」と宣伝に努める一方、「リスク雲々を言い訳にして投資しない」といって強い不満を會議でも発言していました。一方、一部出席者からは「喧嘩もしたが、理解も進んだ。そろそろ議論から実踐へ移ったほうが良いのではないか」との意見も出されていました。
そこで私は「EU,NAFTAなどの動きを見れば、將來この地域にも政府參加の正式な経済連合組織を構築する必要があるだろう。しかも21世紀の世界の成長地帯になるかもしれない、大量の資源保有地域である。この地域のあり方が世界の平和と経済の安定に及ぼす影響は大である。従ってその方向を展望した行動を今起こすことが必要である。その場合APECが非公式民間會議のPECCから発展して生まれたように、北東アジア地域にもこれまでの経済會議に參加していたメンバーが集まって、まず「非公式會合」組織を作ってはどうか、そこでこの地域の発展の具體的プログラムと協力體製作りをし、そのうえで政府參加を呼びかけることにしよう」と提案しました。最初は皆な実現可能性がないと渋っていましたが、議論の末これに賛同するメンバーが多くなり、そのメンバーで「組織委員會」という名稱で立ち上げることになりました。それから3年、エリナを事務局に北東アジア経済會議の前日に組織委員會を開催するほか、他の國でも委員會を開催するまでになりました。そして具體的活動としてまずこの地域の「輸送回路」問題を取り上げ、次に「環境」問題を取り上げることとし、參加各國のシンクタンクのメンバーを中心に「小委員會」を形成、共同研究をし、提言レポートをまとめる作業を行いました。