正文 第22章 近代西洋植民地主義の衝撃による東アジア諸國の関係変化(3)(1 / 3)

1.日本人顧問の招聘

1898年から日本人顧問は続々と中國に至り、まず湖北·湖南、江蘇·江西に招聘され、後に直隷、広東、四川、福建等の省にも招聘され、その大部分は軍事顧問の身分で清政府の新軍養成を助けた。當初、中國に來た日本人顧問は數が多くなく、例えば1901年はわずか26人であったが、「新政」が展開されるようになって以降の1908年、人數は550人に急増し、大いに盛り上がった。

2.日本への留學生派遣

1896年3月、中國駐日公使は日本政府の同意を得て、唐寶鍔、胡宗瀛、戢翼翬ら13人を選定し、日本留學に赴かせた。學界は通常、この企てを中國が留學生を日本へ正式に派遣した始まりとみなしている。20世紀初め、多くの中國人青年學生が群れなして海外へ留學した。留學生が向かった先は東隣の日本が最も多く、1905年前後に日本へ留學した中國人學生は1萬人以上に達し、日本留學の高まりを形成した。

3. 日本書籍の翻訳

日本語書籍の翻訳は近代中國における外國との文化交流で一つの重要な內容となっている。ある意味において、近代中國が日本語書籍を翻訳して紹介したことは、「西學が東に流れ込む」一種の特殊な表現でもある。中國人が翻訳した日本語書籍はほとんどみな日本の明治維新後に現れた新知識、新思想などを反映した出版物であったのであり、日本が西洋に學んだ成功の経験を參考とすることに意味があった。多くの愛國的な日本留學學生は真っ先にその先頭に立ち、東洋である日本から西學を仕入れ、中國人に東學を送り込む力の中核となった。

19世紀末から20世紀初め、日本留學生は多くの翻訳出版団體を組織し、國內の官営、民営出版機関は95にも達した。當時、中國人が日本を學ぶ情熱は高揚し、日本語からの翻訳作品は激増し、後のものが先のものを追い越すように、歐米各國書籍の翻訳數を超えた。『訳書経眼録』の統計によれば、533種の翻訳書のうち日本からの翻訳がなんと321種の多きに達し、総數の60%強を占めた。英、米、仏、獨、ロシア等からの翻訳書の総數よりもさらに多く、自然科學、人文社會科學分野のほとんどの科目を含み、「西學が東に流れ込む」內容を極めて豊富にした。

清末において「西學が東に流れ込む」ことは二つの異なる段階を経た。すなわち日清戦爭前における西洋の自然科學が広がった段階と日清戦爭後における西學が全麵的に広がった段階である。漢訳した日本語書籍の大規模な出版とその流行は、西學が中國に広がった第2段階における精彩な一幕であった。漢訳した日本語書籍の大量輸入によって、この時期の西學の広がりには、新しい情勢と特徴が現われた。日清戦後における西學の中國での広がりは以下の3つの特徴にまとめられる。

その一は、広まった西學の內容は豊富で、學問の分野がそろっており、數が膨大である。

その二は、日本が西學を導入するもう一つの重要な源となった。

その三は、戊戌運動、辛亥革命等の政治闘爭の洗禮を受けた進歩的知識人が西學普及の主體となった。

日清戦爭後の數年間、ブルジョアの民主運動の勵ましを受けたことで中國の知識人は辛苦を恐れず、勇敢に探求し、むさぼるように外來文化を學び、西洋と日本が數百年、數十年かけて形成した學問の成果と知識の積み重ねを比較的短い時間で紹介し、それまで西學が導入した一麵性と受動性を克服し、西學を中國に積極的かつ全麵的に広め、中國·西洋文化の交流史上、燦然と光り輝く一頁を殘したのである。もちろん、導入した外來文化はすべてがいいわけでなく、中にはよくないものもかなりある。中國人もそのエッセンスを百パーセント受け入れるわけでなかった。往々にして內容、性質の異なるものを差別無く受け入れたことで、利益と弊害がともに現れた。どのような國家、民族でも外部の世界と絶えず交流してこそ長短を補うことができ、引き続き生存し発展していく生命力を得ることができ、外來文化を識別する能力を高められるのである。日清戦後、中國人が東學に関心を持ち、それを輸入したことがその點を証明している。