正文 第23章 近代西洋植民地主義の衝撃による東アジア諸國の関係変化(4)(1 / 3)

そして日本では今、西歐に20~30年遅れて外國人労働者を受け入れるか否か、の議論がようやく本格化している。②以上のように、世界史の中で國民國家のモデルであったフランスをはじめ、遅れて近代化に「成功」した國民國家の「優等生」の日本をも含む世界の國々はいま、19世紀につくられた國民國家構想の再検討を迫られる事態に遭遇しているのである。

最後に、越智報告の中でも言及されたトルコ國民國家について一言つけ加えたい。第一次世界大戦後オスマン帝國が崩壊し、アナトリア半島に領土を縮小してトルコ國民國家形成に邁進したケマル·アタチュルクが掲げた近代化政策の重要な柱、トルコ民族主義の理念は、クルド少數民族問題を生み出したし、また政教分離を進める世俗化政策は、1980年代以降イスラーム復興によって挑戦を受けつづけている。③

このような世界各地で行われている國民國家を問い直す知的営為は、近年盛んなオスマン帝國史研究にも現れている。④オスマン帝國の緩やかな専製の下での多様な民族集団(エスニック·グループ)の共存のあり方の中に、近代世界が生み出した「國民」概念やナショナリズムを乗り越える知恵を探るという意図に関心が集まっていえよう。

そして広大な領土を誇る中國に目をやる時、例えば、チベット自治區や新疆ウイグル自治區の民衆の自発的意思(その內実を知る必要があるが)と政府の近代化の推進をどう統合していくのか等、多様な民族を抱えた中國がこれからどこに向かうのか、われわれ日本人はその動向に強い関心を寄せている。

①とりあえず、小山田紀子「人の移動からみるフランス·アルジェリア関係史——脫植民地化と『引揚者』を中心に——」『歴史學研究』846號、2008年10月増刊號、を參照。

②梶田孝道『外國人労働者と日本』日本放送協會、2001年、11~31頁。

③鬆穀浩尚「第IV章 トルコ」(立山良司編著『中東』、自由國民社、2002年)115~152頁(新井政美『トルコ近現代史——イスラム國家から國民國家へ——』、岩波書店、2001年)。

④例えば、鈴木董『イスラムの家からバベルの塔へ――オスマン帝國における諸民族の統合と共存』リブロポート1993年、同著『オスマン帝國とイスラム世界』(東京大學出版會1997年)、など多數の研究がある。

答弁

王開璽 北京師範大學教授

「人臣に外交なし」という思想は近代中國自身への影響のほかに外國の方にも影響があったのか、という孫燕京教授の質問に答えます。四つの麵から簡単に答えたいです。

第1、アヘン戦爭前、中國は封建的君主専製を取り、君主が內政、外交の絶対的な権力を握り、すべての外交は君主の指導下で行わなければならなかったです。「人臣に外交なし」とは、清朝が外國との接觸を拒否する口実ばかりでなく、一種の理念あるいは體製原則でもありました。この原則を無視しまたは改めようとするすべての清朝大臣はほとんど懲罰を受けました。1856年、閩浙総督の王懿徳は、清朝の同意を経ずにアメリカ公使に會見し、その代わりに國書を進呈しましたが、清朝皇帝に咎められました。その後、1858年、耆英はイギリスとフランスとの平和協議をする時、諭旨を待たずに北京へ戻ったため、鹹豊皇帝によって自殺を命じられました。1878年、崇厚はロシアと『イリを引き渡す條約』に調印した後、清朝はまた、その定めた條約が規則違反の越権行為だとし、諭旨を待たずに獨斷で北京へ戻ったという罪名で処罰しました。

第2、外交とは二つの國家間の交流と交渉で中外の関係です。「人臣に外交なし」の思想原則は中國の「臣」の外交活動を製限したならば、當然、外國側にも影響を與えたのです。これは矛盾の両麵と同じように、「矛」のすべての変化は必ず「盾」に影響するのです。中外関係あるいは清朝の外交製度の麵から見れば、中國と外國の関係は、ずっと相互の矛盾と衝突、転換による同化という過程にありました。

第3、清朝は「人臣に外交なし」という原則を堅持することによって外國側に與えた最も大きな影響は、外國の強い不満を引き起こしたことです。このために、諸國は清朝と多くの交渉を行い、戦爭をも起こしました。アヘン戦爭以後の中外條約には次のような規定があり、両広(広東と広西)、両江(江南と江西)、閩浙(福建と浙江)の各総督は皆外國の代わりに國書を清朝に進呈する責任があると規定しています。しかし、この規定は清朝に確実に執行されていないため、中國と外國との間には重大な対立と衝突を引き起こしました。1856年、第二次アヘン戦爭の勃発は、両広総督が外國代表との會見と交渉を拒否したことに重く関わっていました。むろん、第二次アヘン戦爭勃発の原因をこれに帰するのも一麵的です。