正文 第24章 冷戦とポスト冷戦の東アジアの地域交流(1)(2 / 3)

歴史學者である家永三郎も戦前の歴史教育を深く反省した1人だった⑨。彼は1952年に高校用の社會科教科書『新日本史』(三省堂)を単獨で執筆した。この教科書の特徴は「帝國主義·戦爭に対する鋭い批判精神に満ちた記述」と、當時の學界ではまだ研究が進んでいるといえなかった民衆の生活史や女性史などの斬新な敘述內容にあった⑩。

1950年代、冷戦が進むと社會科教育および歴史教科書を取り巻く環境は大きく変化して、教科書の検定不合格処分が増えていった。1960年、家永は『新日本史』の全麵改定の検定を申請したところ不合格処分となった。1964年には修正を加えて再度申請するが、300箇所近い修正を指示され、條件付合格となった。そこで家永は翌1965年、検定の不合格処分と條件付合格の際の「修正意見」が違憲·違法であるとして民事裁判を起こした。以後32年にわたって続く家永裁判の始まりである。

家永は1967年に第2次訴訟を、1984年には第3次訴訟を起こして教科書検定の不當性を訴えた。家永教科書裁判という場合、これら3つの裁判をまとめて指す。

第2次訴訟は、家永が1964年の教科書検定で修正を迫られた內容を復活させようと1967年に検定申請したところ6箇所の記述が認められず不合格となったため、その不合格処分取り消しを求めた行政訴訟である。また第3次訴訟は、國際批判にさらされた1980年検定の際の「南京大虐殺」「日本軍殘虐行為」「731部隊」「沖縄戦」など10の爭點を取り上げ、それらに対する検定が違憲·違法であるとする國家賠償請求訴訟であった。

3.家永教科書裁判の成果

ここで裁判の経緯を細かく論ずる紙幅がないので、その結論のみを記すと、次のようになる。第1次訴訟は、東京地裁が教科書検定の10數箇所の違法性を認める判決を下したものの、東京高裁、最高裁で家永側の敗訴となった(1993年)。第2次訴訟は、東京地裁が家永の主張を認め、検定による6箇所の不合格処分を取り消す畫期的な判決を下した。東京高裁でも不合格処分の取り消しを命じたが、最高裁はこの判決を破棄して東京高裁に差し戻し、結局、家永の訴えは卻下された(1989年)。第3次訴訟は、東京地裁が1つの爭點について検定意見の不當性を認め、東京高裁では3つの検定意見を違法とした。そして1997年の最高裁判決では教科書検定製度そのものは合憲としたうえで、「南京大虐殺」ほか4つの検定意見を違法と結論した。

以上のように家永教科書裁判はそれぞれの訴訟及びそれぞれの裁判段階で家永が勝利をおさめたものではなかったが、審理の過程で教科書検定における「裁量権の濫用」を法廷が認め、1990年代以降、教科書検定の検閲的性格を後退させていく要因となった。そして何よりも重要なのは、家永裁判が日本の歴史研究者に歴史學と歴史教育の関係の重要性に気づかせ、教科書の內容をより充実させる方へ向かったことである。家永裁判の進行とともに歴史研究者は、日本の植民地支配や戦爭の実態、例えば南京事件、慰安婦、731部隊等々の実証的な研究を深化させ、その成果を教科書の內容に反映させていった。その結果、1970年代以降、歴史教科書は検定を受けながらも近現代史、特に戦爭期の敘述內容を充実させていった。これは否定できない事実である。

むすびにかえて

1980年、自民黨が當時の社會科教科書を取り上げ、自國の歴史を暗く書きすぎると教科書を攻撃し、特にその年の教科書検定が厳しくなった事実⑾や、1982年の國際的な批判の後、先に述べた2つの歴史教科書が登場してきた経緯は、家永の歴史教科書、そして教科書裁判の存在なしにはありえなかった。いずれもそれらへの反発として起きた現象ととらえられる。