(司會 佐々木寛)
報告
日本の戦後歴史教育と教科書問題
新潟國際情報大學準教授 小林元裕
はじめに
2008年5月、中國の胡錦濤國家主席が來日し、日中両國は共同聲明を発表した。前回の共同宣言から10年ぶりとなる今回の共同聲明で注目されるのは歴史問題に関する文言が従來になく少ない點である。日中間の重要文書である1972年の日中共同聲明、1978年の日中友好平和條約、1998年の日中友好協力パートナーシップ宣言では、いずれも日本の過去の戦爭や侵略に対する「反省」、「責任」の言葉が記されたが、今回の共同聲明では「歴史を直視し、未來に向かい」と記されたに過ぎない①。このことから中國が歴史問題をあまり重視しなくなったと考えるのはあまりに短絡的だろう。歴史問題が依然として日中両國にとって重要なテーマであることに変わりはない。しかし、今回は日本が中國侵略への反省を表明するという従來型の聲明ではなく、日中両國が「戦略的互恵関係」を築いていくためにも、未來誌向でこの問題に取り組んでいくという意思の表明と受け取れる。
また今回の共同聲明でもう一つの大きな特徴として注目されるのは、「日本が、戦後60年餘り、平和國家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢獻してきていることを積極的に評価した」②と、第二次世界大戦後における日本の平和國家としての役割を中國が初めて評価した點である。今回の聲明では、その「平和的手段」について具體的に言及していないので、何を指すのか不明だが、一般的には日本が平和憲法を堅持し、なんら軍事行動に訴えなかったことを指すと考えられる。今回、私の報告テーマである「戦後日本の歴史教育と教科書問題」も日本が果たした平和的手段の一つといえる。
1.三つの歴史教科書問題
このように書くと、多くの人は、それは逆ではないかと考えるだろう。戦後日本の歴史教育は平和に貢獻したというよりむしろ右傾化の波に常に揺れてきたのであり、そのもっとも具體的な例が歴史教科書問題である、と。歴史教科書問題といった場合、近いところでは2001年の「新しい歴史教科書をつくる會」編集の『中學社會 歴史』(扶桑社)を、少し前であれば1986年「日本を守る國民會議」編集の高校用教科書『新編日本史』(原書房)が想起されるだろう。
これら2冊の教科書は確かに日本の歴史、とくに近代以降の歴史を積極的に評価し、特に植民地や戦爭に関する敘述において日本の行動を肯定的に敘述した。特に前者の教科書執筆者らは自らの歴史認識を「自由主義史観」と定義し、従來使われてきた歴史教科書の內容を「自虐的」であり、「暗い」とする批判運動を大々的に展開した③。
中國、韓國との関係でいえば、日本の教科書検定が「侵略」という表現を認めず、朝鮮民族の獨立運動を「暴動」と表現させたことなどに対して1982年、両國から公式に抗議され、教科書検定が國際問題化した④。日本政府は宮沢官房長官談話⑤を発表し、後に「近隣のアジア諸國との間の近現代の歴史的事象の扱いに國際理解と國際協調の見地から必要な配慮がされていること」との近隣諸國條項が検定基準に加えられた⑥。
以上の経緯を見れば、確かに日本の歴史教育は平和に貢獻したといいがたいかもしれない。しかし、それならなぜ上記したような歴史教科書が登場し、1982年の教科書検定問題が起きたのか。私はこの背景にもう一つの教科書問題があったことに注目したい。それは家永三郎執筆による『新日本史』とその記述をめぐる教科書検定裁判である。
2.三つの家永教科書裁判⑦
1945年8月、第二次世界大戦に敗れた日本の教育者、研究者は戦前の國定教科書に対する深い反省の念から戦後の教育を再開した⑧。文部省も國定でない多様な教科書の登場を促すために1947年、教科書の「検定製」を導入した。