(司會 越智敏夫)

報告

東アジアの地域主義と歐州統合の経験

新潟國際情報大學教授 臼井陽一郎

東アジアの將來について地域主義をキーワードに考えてみたい。ここで地域主義とは端的にいって、近隣諸國が共通の問題に共同で対処するための製度作りを協働で進めようとする政治方針をいう。これは20世紀の國際政治を特徴づける動きの一つでもある。とりわけ90年代以降、世界各地で盛んになっていった。米ソ冷戦構造の崩壊がその背景にあった。

地域主義の代表例は、なんといってもヨーロッパのEU(歐州連合)である。それは半世紀にわたる歐州統合の成果であり、國家間統合の最先端の事例である。これに加えて、東南アジアのASEAN、南米のメルコスル、北米のNAFTAなどがあり、アフリカも幾多の試みののち、ついにAU(アフリカ連合)の創設にたどり著いた。他にもさまざまな事例が見られるが、こうした動きは要するに、地球一體化(グローバル化)の進展が平行して近隣諸國間の緊密化(リージョナル化)を促進してきたのだと理解できるだろう。この動き、われわれの東アジアではどうであろうか。また今後の展望はどうだろうか。

表1に見られる通り、東アジアでもたしかに地域主義が芽生えてきた。他地域と比べいかに足腰の弱いものであろうと、そのたしかな動きの存在を否定することはできない。その觸媒となったのが、ASEANとEUという二つの地域組織であった。両者はASEM(アジア歐州會合)の設立で一致する。そのアジア側諸國が、いわゆるASEANプラス3を構成した。これを政治のプロセスとして具體化する契機が、金大中イニシアティブによって作られる。東アジア共同體を構想する研究會が組織され、具體策が提言されたのである。本報告では、こうした東アジア地域主義の胎動を確認し、今後のあるべき姿を展望してみたい。

89年にAPEC(アジア太平洋経済協力)が産聲を上げるが、これは地域共同體というには大きすぎた。そもそも東アジアの地域としての一體性を薄めてしまうきらいもあった。他方で、67年に先行して設立されていたASEANは、逆にまったくもって小さすぎた。90年に當時マレーシア首相だったマハティールが、東アジア経済グループを提唱するが、それは大きすぎるAPECと小さすぎるASEANの中間をねらったものであったといえるだろう。このマハティール構想、アメリカの反対を受ける。日本もアメリカに追隨、また中國も台灣や香港の位置づけに関して同調できず、結局、宙に浮く狀態になってしまった。

けれども、EUがASEANにASEM(アジア歐州會合)の設立を持ちかけたとき、マハティール構想が復活する。ASEANはアジア側の參加國として、日中韓を招待した。これはマハティールが構想した東アジア諸國とほぼ一致した。つまり、EUとASEANのインター·リージョナリズム(地域主義間連攜)が、東アジアなる地域概念の構築に寄與したのである。これは將來の(願わくば)ありうべき東アジア共同體形成史の重要な初期局麵として、留意されるべき事実であろう。1996年、第1回ASEM(アジア歐州會合)が開催され、ASEANと日中韓がともに、東アジア側の席につくこととなった。

ところが、その翌年の97年に、アジアは未曾有の金融通貨危機に見舞われる。世界の成長地域は、実は共同危機管理枠組の空白地帯だったことが明らかとなる。この狀況を前に、ASEM(アジア歐州會合)の東アジア側諸國は、ASEANプラス3というプラットフォームを形成する。表向きはASEANが30周年記念に日中韓を交えた會合を新たに設けようともちかけたものであったが、実質的には東アジアの危機管理枠組の空白に対処しようとするねらいがあった。ここにASEANプラス3プロセスがスタートする。この13ヶ國は99年に第1共同聲明を発表、東アジア共同體を視野に入れた地域協力の深化を誓うこととなった。