第29節(2 / 3)

彼女は全日空のオフィスに電話をかけて僕と同じ便の座席を予約した。それからその女の子の部屋に電話をかけて、荷物をまとめてすぐに下りてくるように、一緒に帰る人がみつかったから、と言った。大丈夫、よく知っているちゃんとした人だから、と彼女は言った。次にボーイを呼んで、彼女の部屋に荷物を取りにやらせた。そしてホテルのサービスリムジンを呼んだ。きびきびとしてとても手際がよかった。有能だった。とても手際がいい、と僕は言った。

「この仕事好きだって言ったでしょう。向いてるのよ」

「でも、からかわれるとムキになる」と僕は言った。

彼女はまたボールペンで機をとんとんと叩いた。「そういうのはまた別なの。冗談言われたりからかわれたりするのって、あまり好きじゃないの。昔から。そういうことされるとすごく緊張するの、私」

「ねえ、君を緊張させるつもりなんか全然ない」と僕は言った。「逆だよ。僕はリラックスしたいから冗談を言うんだ。下らなくて無意味な冗談かもしれないけれど、僕だって僕なりに努力して冗談を言ってるんだ。もちろん時によっては自分が考えてるほど相手が麵白がってくれないこともある。でも別に悪意はないんだ。何も君のことを笑っているわけじゃない。僕が冗談を言うのは、僕にとってそういうのが必要だからだよ」

彼女は少し唇をすぼめて僕の顔を眺めていた。丘の上に立って洪水の引いたあとを眺めるような目付きだった。それから彼女は溜め息をつくような、鼻をならすような、複雑な聲を出した。「ところであなたの名刺を頂けないかしら?一応女の子を預けた手前、立場上」

「立場上」と僕はもそもそと口ごもりながら、財布から名刺をひっぱりだして彼女に渡した。僕も一応名刺くらいは持っている。一応名刺くらいは持っている必要があると十二人くらいの人に忠告されたのだ。彼女は雑巾でも見るみたいにじっとその名刺を見ていた。

「ところで君の名前は?」と僕は訊いてみた。

「今度會った時に教えてあげる」と彼女は言った。そして中指で眼鏡のブリッジを觸った。

「もし會えたら」

「もちろん會えるよ」と僕は言った。彼女は新月のように淡く物靜かな微笑を浮かべた。

十分後に女の子がボーイと一緒にロビーに下りてきた。ボーイはサムソナイトの大きなスーツケースを持っていた。ドイツシェパードが立ったまま一匹入りそうなくらい大きなスーツケースだった。たしかにこんなものを十三の女の子に持たせて空港に置き去りにするわけにもいかない。彼女は今日は「TALKING HEADS」と書かれたトレーナーシャツを著て、細いブルージーンズとブーツを履き、その上に上等そうな毛皮のコートを羽織っていた。前に見た時と同じように彼女には透き通るような奇妙な美しさが感じられた。とても微妙なーー明日消えたとしてもおかしくなさそうなーー美しさだった。でもその美しさは見るものにある種の不安定な感情を起こさせるような気がした。たぶんそれが微妙すぎるからだろう。「トーキングへッズ」と僕は思った。悪くないバンド名だった。ケラワックの小説の一節みたいな名前だ。

「語りかける頭が俺の隣でビールを飲んでいた。俺はひどく小便がしたかった。小便をしてくるぜと俺は語りかける頭に言った」