正文 第17章 19世紀半ば以前の東アジアの地域交流(1)(1 / 3)

(司會 區建英)

報告

漢唐以來の中國思想と東アジア·ヨーロッパとの文化関係

北京師範大學教授 張濤

中國の伝統思想は殷周の時代に芽生え、春秋戦國時代に老子、孔子、孫子、墨子など重要な思想家が多く現れ、中國思想文化の発展を大いに推進した。漢武帝の時に、儒家以外の諸子百家を排斥し、儒學を國家教學として據えた。以來、儒家學説は中國伝統社會の統治思想と正統的な學術となった。漢の末期以降、老子および道家思想を根源とする道教は次第に形成した。魏晉の時、道家思想と儒家思想を融合した玄學が盛んに興った。その間に、外來の仏教思想も知らず知らずのうちに芽生えた。しかし、伝統的な儒家、道家等の思想がその中に融合し、それを中國化し民族化し、唐代に至って禪宗などの中國化した仏教學派が相次いで形成した。宋明時代には、多くの學者が開放的な視野で仏教や老子の思想を吸収し、伝統的な儒學について再構築を行い、理學すなわち道學を形成した。その中にも程朱理學(朱子學)と陸王心學(陽明學)に分かれた。清代には、樸學すなわち漢學、考証學が興った。漢唐以來の中國伝統思想文化の発展は、儒(儒家あるいは儒教)、釈(仏教)、道(道家ないし道教)が相互論爭、相互摂取、総合融合の過程であり、つまり、外來文化を絶えず吸取し、無限の生命力を獲得した過程であると言っても過言ではない。

漢唐から明末にかけて、中國の伝統思想文化と東アジアの文化との交流は、日本および朝鮮半島に深い影響を與えた。これは特に儒學と仏教に現われたが、道教にも一定の影響が見られた。例えば、儒學において、応仁天皇16年(西暦285年、晉武帝太康6年)、朝鮮半島の百済國の人·王仁が日本に渡來し、朝廷に『論語』10巻を獻上した。推古天皇12年(西暦604年、隋文帝仁壽4年)、新政を進める聖德太子は儒學を中心として『憲法17條』を製定し、その中で「和を貴と為し」、「禮を本と為す」などの儒學の倫理規範を明確に提唱した。大寶年間(唐中宗嗣聖年間)、文武天皇は『大寶律令』を製定し、儒學の國家教育における地位、組織體製および教學內容について明確な規定を行った。奈良、平安時代において、儒學は一層繁栄した。中國の唐玄宗が孔子を文宣王と封ずたことに続いて、日本の稱徳天皇も孔子を文宣王に敕封し、各地で祭るよう命じた。德川時代には、朱子學、陽明學などが日本で発展し、とくに朱子學は官學となった。

また、仏教において、継體天皇16年(西暦522年、南朝梁武帝普通3年)、中國の司馬達らが仏教を伝えるために日本へ渡った。仏教の日本伝來の始まりだという。これは野史の説である。正史の説では、百済を経由して日本に伝來したのであり、時期も少し遅い(一般に西暦538年、欽明天皇7年、梁武帝大同4年)。日本に伝わった仏教の大部分は中國化された仏教であり、日本に大きな影響を與えた。聖徳太子が製定した『憲法17條』は儒學をと尊ぶと同時に、仏教をも尊び、臣民に「三寶(仏法僧)を篤く敬う」ことを要求した。新政を進める中で、聖徳太子は大いに仏教を扶植し僧侶を招き、仏教寺院を建設し、仏像を営造し、仏法を盛んにした。小野妹子を使節として隋朝へ派遣すると同時に、仏法を學ぶために「沙門數十人」を派遣した。聖徳太子本人も、仏教経典を解釈する著作を書いたという。隋唐時代、中國の多くの仏教教派は相次いで日本に伝わり、また日本も唐王朝に行って天台宗、密宗を學ぶ僧侶がいた。宋元時代、禪宗における最も影響力を持つ教派―臨済宗、曹洞宗が日本に伝わり、迅速に伝播した。

中國から伝來した儒學と仏教は、日本において同様に吸收、更生、創造といった過程を経て、獨特な風格を持つようになった。日本の儒學には獨自の特徴を持ち、決して中國儒學の単純な復刻版ではない。外來文化としての中國儒學思想が日本に受け入れられるのに、もちろん選択と消化といった過程を経験した。これゆえ、日本儒學は、中國儒學とのルーツが同じであるにもかかわらず、日本での本土化によって元來のものと遙かに異なり、混同してはならないものとなった。例えば、中國伝統的な儒家思想には強い包容力と會通精神を持っていながらも、形式的には強い排他性も持っている。儒學の內部においても、異なる學派も絶えず論弁を展開し、正統を爭った。これに対して、日本儒學は基本的にその他の思想流派と共存できた。日本の早期儒學から見れば、當時伝來した儒家典籍およびその注釈には、南朝係統のものもあれば、北朝係統のものもあった。しかも、その儒學が仏教および日本固有の神道(神祇)と調和的に共存することができた。