21世紀に入って、東アジア諸國には儒學のブームが現われている。韓國において、2000年10月から、韓國の國家放送局KBSは毎週2時間で、『論語』講座を放送して一年間も持続した。講座の擔當者は、韓國の高麗大學教授の金容沃博士である。2006年、10月1日國慶節(建國記念日)のゴールデェンウィークにおいて、中國の中央テレビ局CCTVも7日間連続して「於丹の『論語』會得」という特別講座を放送し、市民の熱烈な歓迎を受けた。私の知っているところでは、2007年、中國學者·於丹の著書『論語會得』は日本語に訳されて、『論語力』というタイトルで出版され、ベストセラーになった。2008年1月、日本の福田首相は來日訪問の於丹に會見し、『論語』について親切に話し合った。これらは、儒學思想は當今の東アジアにおいて、類似しためぐり合わせと共通した現われ方があるということを物語っている。もとより、儒學が東アジアの共有文化となるのは、今日の情報社會の新しい現象ではなく、深い歴史的淵源があるのである。
儒學は2500年前春秋時代の中國に生まれたが、中國の特有するものではなく、朝鮮·韓國と日本にも儒學の長い発展史があった。遅くとも紀元前2世紀、朝鮮半島にはすでに『論語』を暗誦できる學者がいた。西暦4世紀初め、百済人·王仁は『論語』を日本に持っていったことで、日本の儒學史が開かれた。歴史的に見れば、儒學はまさに東アジア諸國の相互交流と相互影響によって発展してきたのである。ここで三つの事例を挙げる。
第1は、朝鮮·韓國の儒學に対する貢獻である。學界とくに中國の學界は朱子學を論じる時、往々にして中國を中心とし、これゆえ、宋代の程朱理學から陽明心學に至るという単線的な構図を形成するのである。実際、朱子學は早くも中國の域を超え、東アジア諸國封建王朝の最後の共有哲學となった。中國の明代においては、朱子學が衰えて陽明學主な旗印となった。しかし朝鮮において、朱子學は衰えなかったばかりか、絶えず推進され、特色を持つ理學を軽視した。16世紀後期、朝鮮の學者·李滉(退渓、1501-70)らは、朱子學の「主敬工夫論」を大いに発展し、哲學の重心を「天理」から「心性」へ移し、人間を萬物主宰の地位にと上昇させた。このため、「人間學」という説がある。李滉の學説は朱子學に対する転換と超越であり、性理學の內容を豊かにし、しかも中國と日本など東アジア諸國に伝わった。
第2は、日本が儒學の內包を豊かにしたことである。儒學が日本に伝來した後、日本社會の多方麵に広く影響を及ぼし、しかも民族特色のある日本儒學を次第に形成した。徳川時代、山崎闇斎、藤原惺窩らは朱子學を神道と融合し、儒學をもって神道を解釈し、日本の神道文化史において特色を示した。儒學の角度から見れば、彼らは儒學の観點によって日本伝統の神道を解釈し、神儒調和、神儒合一を主張する。儒學の堯舜之道も日本の神道の実質と同様に、「民心を正しくし」、「萬民を憐れみ」、「慈悲を施す」ものだと主張する。日本の儒學と神道との融合は複雑な問題であるが、一點だけ斷定できるのは、彼らの神儒調和の主張は、本來神學信仰を欠いた儒學思想に宗教理論の色彩をもたらし、東アジアの儒學の攜帯を豊かにした。
第3は、日本儒學の中國に対する影響である。清代に入った後、中國の陽明學はとても衰退したが、清末には復興の兆しが現われた。陽明學が中國に復興できたのは、日本の影響を受けたからである。陽明心學は日本の倒幕維新の誌士に重大な影響が與えた。18世紀40年代、大阪で蜂起を起こした大塩平八郎は、思想的に陽明學の影響を受けた。倒幕運動の重要な誌士·吉田鬆陰も、陽明學から思想的栄養を吸収した。吉田鬆陰の學生·高杉晉作、「維新三傑」の一人·西郷隆盛も、陽明學の信奉者であった。中國の梁啓超、章炳麟、宋教仁らは、日本が富強の道を歩んだ原因に陽明學の深い影響があると考えたため、陽明學を重視し提唱するようになった。