除開從日語翻譯廚川白村的文藝理論,魯迅還從日語翻譯了較多日本現代文學作品,即收入《現代日本小說集》中的11篇,森鷗外《遊戲》和《沉默之塔》,夏目漱石《掛幅》和《克萊喀先生》,有島武郎《與幼小者》和《阿未的死》,江口渙《峽穀的夜》,菊池寬《三浦右衛門的最後》和《複仇的話》,芥川龍之介《鼻子》和《羅生門》等,另外還有武者小路實篤《一個青年的夢》(戲劇)和鶴見佑輔《思想?山水?人物》(隨筆)。恰如竹內好所說,魯迅對於日本文學是具有相當嚴肅的批判的眼光的,日本現代作家的名聲和影響是重要的選擇動因。
大抵漢語白話與日語更為近似,翻譯和轉譯日語作品更容易傾向於逐字逐句的直譯。魯迅《〈苦悶的象征〉引言》(1924.11.22)寫道:“文句大概是直譯的,也極願意一並保存原文的口吻。但我於國語文法是外行,想必很有不合規範的句子在裏麵。”另一方麵,魯迅認為,在日語中,歐化的語法是極平常的,歐化的日語正可以作為漢語白話(國語)的模範。《將譯〈桃色的雲〉以前的幾句話》(1922.5.13)和《〈桃色的雲〉序》(1923.7)都宣稱日語有較強的傳達力:“由我看來,日本語實在比中國語更優婉。而著者又能捉住他的美點和特長,所以使我很覺得失了傳達的能力。”以下迻錄一節芥川龍之介《羅生門》。《羅生門》譯文連載於1921年6月14至17日《晨報》副刊。一般而言,魯迅是逐句逐字翻譯,甚至沒有改變原來語句的前後次序,而且魯迅的詞語、句式和語法是風格化的、個性化的,混雜了少量的方言,例如,地動、旋風、都中、鴟吻、夕照、一匹烏鴉等等。
羅生門(らしょうもん)
ryūnosuke akutagawa 魯迅譯
何故かと雲うと、この二三年、京都には、地震とか辻風(つじかぜ)とか火事とか饑饉とか雲う災(わざわい)がつづいて起った。そこで洛中(らくちゅう)のさびれ方は一通りではない。 要說這緣故,就因為這二三年來,京都是接連的起了地動,旋風,大火,饑饉等等的災變,所以都中便格外的荒涼了。
舊記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に売っていたと雲う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。 據舊記說,還將佛像和佛具打碎了,那些帶著丹漆,帶著金銀箔的木塊,都堆在路旁當柴賣。都中既是這情形,修理羅生門之類的事,自然再沒有人過問了。
するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸(こり)が棲(す)む。盜人(ぬすびと)が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って來て、棄てて行くと雲う習慣さえ出來た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。 於是趁了這荒涼的好機會,狐狸來住,強盜來住;到後來,且至於生出將無主的死屍棄在這門上的習慣來。於是太陽一落,人們便都覺得陰氣,誰也不再在這門的左近走。
その代りまた鴉(からす)がどこからか、たくさん集って來た。晝間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾(しび)のまわりを啼きながら、飛びまわっている。 反而許多烏鴉,不知從那裏都聚向這地方。白晝一望,這鴉是不知多少匹的轉著圓圈,繞了最高的鴟吻,啼著飛舞。
ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻(ごま)をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄(ついば)みに來るのである。――もっとも今日は、刻限(こくげん)が遅いせいか、一羽も見えない。 一到這門上的天空被夕照映得通紅的時候,這便仿佛撒著胡麻似的,尤其看得分明。不消說,這些烏鴉是因為要喙食那門上的死人的肉而來的了。——但在今日,或者因為時刻太晚了罷,卻一匹也沒有見。
ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞(ふん)が、點々と白くこびりついているのが見える。 隻見處處將要崩裂的,那裂縫中生出長的野草的石階上麵,老鴉糞粘得點點的發白。
下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖(あお)の尻を據えて、右の頬に出來た、大きな麵皰(にきび)を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。 家將將那洗舊的紅青襖子的臀部,坐在七級階的最上級,惱著那右頰上發出來的一顆大的麵皰,惘惘然的看看雨下。
四、簡短的結語
明治以來,日本確乎是走上了通向成功的歐化道路,魯迅多處稱美日語的傳達力和日本現代文學的繁榮,這是源於一種身處其間的切近觀察。20世紀初至30年代,不完善的、建設中的白話是現代中國的一個話語(文化)主題,與胡適、劉半農等不同,魯迅更傾向於模仿歐化日語的漢語白話建設路線,歐化文的觀念較深刻地影響了魯迅的翻譯策略,尤其是從日語轉譯,往往突出了漢語白話(國語)的含混和尷尬。《康伯度答文公直》(1934.7.25)寫道:“我主張中國語法上有加些歐化的必要。這主張,是由事實而來的。中國人‘話總是會說的’,一點不錯,但要前進,全照老樣卻不夠。”
(作者單位:彭建華,福建師範大學文學院;邢莉君,福建江夏學院人文係)